館長室から

#38 皐月 考古学から「平泉文化」を考える
奥州藤原氏の村支配2―「磐前村印」とは②―

2017.5.9

△群―村制へ移行―12世紀当時の奥州の地方当時システムは、それまでの群―郷制から、郡の下に村が直結する郡―村制的システムへ移行しつつあった。
史料的には、奥州藤原氏が適地を選び中尊寺へ寄進した寺領を単位とするものが目立っていた。例えば、中尊寺別当領として「伊沢郡内黒沢村、同郡宇津木祢村、同郡北俣村、江刺郡内辻脇村、同郡倉沢村。斯波郡内乙部村」が書きあげられていた(中尊寺文書、康永三年(1344)平忠泰渡状)。
なお、『吾妻鏡』文治五年(1189)九月十四日条に「平泉舘」に「奥州羽州両国省帳田文」(民政や土地所有者関係書類)が備えられていたとあり、平泉舘跡と推定されているこの柳之御所遺跡から、このような印章が出土しても不自然ではない。
△村印の機能―奥六郡周辺では、奥州藤原氏が村の首長に村印を下付し、彼等の身分標識とされていたのではないか?即ち、村印は「私印」ではなく、奥州藤原氏によって鋳造された「公印」であった可能性が強い。
ただし、村印が、首長の命令を伝える文書に押印されていたとは考えられない。当時の村の在り方、即ち村の規模・人数・識字率などから判断すると、口頭による以外に、命令を伝える方法はなかったに違いない。村印は首長の身分の象徴であった。

 

△首人が在中―中尊寺領の村々には首人と呼ばれる有力者がいて、寺役免除の特権を与えられていた。例えば鎌倉中期の田数を記した検注帳において、黒沢村―五町について首人免一丁(町)、辻脇村六丁について首人免一丁とある(建長三年(1251)惣検取帳、『中尊寺宝物手鑑』所収)。同じく中尊寺経蔵領として有名な磐井郡骨寺村でも「首人分田屋敷分 地絹一切代七百文」の記載があり、通常の住民とは異なる地位を保障されていたことが知られる(中尊寺文書、文保二年(1318)骨寺村所出物日記)。
これらの首人は、中世荘園の役人ではなく、明らかに伝統的、かつ辺境的な役であった。伝統的な首長の家柄に属する人物が、その職に就いていたことが考えられる。神官などの家であろうか。」以上が入間田氏説である。

 

◆大石直正氏の異なる説

大石氏(東北学院大学、当時)は入間田氏とは異なる説を展開(大石直正「平泉于栁之御所跡発見の「磐前村印」と荘園公領地」『米沢史学』第20号所収)。その趣旨は、「この印章は奥州藤原氏時代のものではなく、それ以前(朝廷の力が未だ強かった時代)の印章で、サイズ的には郡印に近い。また、「磐前村」は磐井郡の手前とも解釈できるので、磐井郡の手前、即ち磐井郡の南方を探すと旧栗原郡の岩ケ崎(旧栗駒町、現栗原市)がある、ここではないか?」というものである。
平川氏が銅印の密度に新しい傾向が指摘されており、奥州藤原氏以前の印とする大石氏の説には従いがたい。岩ケ崎説は魅力的である。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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