館長室から

#44 霜月 考古学から「平泉文化」を考える㉟
奥州藤原氏の独自性②

2017.11.4

▲第16回で紹介したように、奥州藤原氏は陶磁器を非常に好み、当時入手可能であった国内外の陶磁器を購入し、さらに、陶器の一部は奥羽の地元で生産させていた程であった。
それらを日常生活の容器、政治の延長線上の宴席での酒器外、経塚への埋経容器、呪いの場での祭器として惜しげもなく使用していた。又、威信財でもあったろう。
奥州藤原氏は、中国から輸入した磁器(舶載磁器という)のうちの白磁を好み、中でも四耳壺・水注・梅瓶の3器形をとりわけ好んだ。これは鎌倉幕府の御家人の好みと同一であることから、矢部良明(東京国立博物館、当時)氏は、陶磁器への嗜好の点でも日本の中世は奥州藤原氏から始まる、とまで述べている。
ところで、白磁・青磁・青白磁、さらには緑釉陶器や黄釉陶器など、釉を施した(施釉という)焼物は、その釉の色調・肌色を愛でるはずである。ところが、平泉から白磁の表面を隠した壺が出土したのである。

 

▲漆麻布着せ白磁四耳壺
1999年(平成11)、柳之御所遺跡堀内部地区(政庁平泉舘)に井戸跡が確認され、50SE3と命名された。開口部の直径2.4×2.2㍍、深さ3㍍で、12世紀後半に使用されなくなったと推定(廃棄された)。
その埋土の60㌢の深さより白磁四耳壺が、1㍍より「磐前村印(「いわさきむらいん」、或いは「いわがさきむらいん」)」、との銘を持つ銅製の印章が出土し、いずれも何らかの理由で12世紀末に廃棄されたと推定された。この銅印章は第28・29回で紹介したところである。
白磁四耳壺は、井戸の南西の壁に接して大きく割れた状態で出土。口縁部を含む胴上半部はほぼ正立、下半部が横倒しの状態であった。約1㍍離れて同一個体の破片が出土したこと、一部の破片を欠いているので、この四耳壺は廃棄される段階で原型を失っていた(割れていた)と考えられた。
破片を接合したところ、ほぼ完成品となった。大宰府分類のⅢ系に相当し、12世紀第3四半期の輸入と考えられ、中国福建省産と推定。
特筆すべきは器表面全面と底面、口縁部内面の頸部付近まで、密着した状態で漆の浸み込んだ麻布で覆われていたことである。即ち、この四耳壺は、白磁の白い肌面を隠すように、麻布を着せられ(麻布で覆われ、包まれ)ていたのである。
このように麻布で覆い漆を塗った理由として、まず、白磁四耳壺を素地として、黒漆の地に朱漆などで蒔絵の装飾を施そうとした可能性が考えられる。蒔絵の作業工程の「布着せ」と類似しているのである。
或は、黒漆の他に、文様の型に切り取った貝殻などを嵌め込む螺鈿細工を施そうとした可能性もあろう。
いずれにせよ、加工作業の途中で四耳壺が損壊したので廃棄に至ったものではないか?
これは、白磁を全く別のものにする「加工」「造りかえ」であり、奥州藤原氏の独自性の表れと見ることができる。

考古学から「平泉文化」を考える
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺区)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

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