特別企画展「雅静の美―正法寺の至宝を巡る―」(会期延長)
みちのくの禅道場に伝わる 風格と寺宝
無底禅師の法統を嗣いだ月泉良印禅師は正法寺の伽藍を整え、門弟を数多く育成し、奥羽両国に教勢を拡大。多くの信奉者を得て、正法寺一門は大きく発展しました。この間に總持寺峨山禅師より認可を得るなど、正法寺は永平寺、總持寺と並んで「第三の本山」の格式となり、その勢いは東北を中心に関東・関西へも及んだと伝えられています。
「第三の本山」の格式は江戸時代初期に幕府の政策によって失われ、正法寺は總持寺の直末筆頭寺院となりましたが、由緒ある古寺として仙台藩から75石の寺領を得、法堂(本堂)、仏殿、山門は藩によって修繕されるなど別格の庇護を受けていました。
日本一の茅葺屋根を誇る法堂の大建築に代表される伽藍には、秘仏本尊の如意輪観世音菩薩をはじめ、その歴史と格式を裏付ける尊像・寺宝・文化財が数多く安置されています。
本展では、通常非公開となっている正法寺の寺宝を公開。東北地方における宗教・文化形成に果たした正法寺の大きな役割を通じて、郷土の歴史の一端に触れて頂ければ幸いです。
- 会期
- 2021年4月24日(土)~2022年1月16日(日)・年中無休
- 時間
- 9:00〜17:00(11/1から16:00閉館)
- 会場
- えさし郷土文化館 第二展示室ほか
(岩手県奥州市江刺岩谷堂字小名丸102-1/TEL0197-31-1600)
- 主催
- えさし郷土文化館
- 共催
- 奥州市教育委員会
- 特別協力
- 大梅拈華山圓通正法寺
- 入館料
- 入館料金/一般300円(250円)、高校生200円(150円)、小中学生150円(100円)
※ 未就学児童無料
※ ( )内は15名以上の団体料金
※ 「奥州市民パスポート」の提示で奥州市民は入館料半額
半券特割/正法寺、えさし郷土文化館、歴史公園えさし藤原の郷の入山・入場半券提示による相互割引を実施(4月1日~9月30日)
プロローグ 正法寺の開創
正法寺は貞和4年(1348)、無底良韶禅師によって胆沢郡黒石に開創されました。無底禅師は能登国の地頭、酒井氏の出身で、酒井氏は曹洞宗の高祖、道元禅師とならび太祖として尊崇される瑩山紹瑾禅師の永光寺開基家として宗門においても名門の家柄でした。
無底禅師は22歳で出家し、曹洞宗発展の原動力となった明峯素哲と峨山韶碩の両禅師に師事。なお、峨山禅師には25人の優れた門弟[峨山二十五哲]がいましたが、無底禅師はその第一番に列せられています。
31歳のとき新寺造営の決意をした無底禅師は、その3年後、熊野権現の託宣に従って奥州に下り、黒石の地に至って、仏法僧の鳴くを聴き、守林神が一対の鹿となって現れるという瑞兆霊夢を得て正法寺が開かれました。
正法寺は開山のわずか2年後の観応元年(1350)、崇光天皇により奥羽二州(東北地方)での僧侶の登録や任官を司る[僧録]に任じられ、日本曹洞宗第三の本山になったと伝えています。また、康安2年(1362)には峨山禅師より「正法寺は末代まで奥羽両国の本寺たるべし」との置状が与えられ、正法寺は本山の格式を備えた出世道場として歩み始めました。
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延文5年(1360)
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南北朝時代
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開山遺宝
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開山遺宝
第1章 正法寺の発展と胆江地方
無底禅師が正法寺を開いた黒石の地は、北上川東岸の北上山地に位置し、対岸には胆沢扇状地が広がっています。中世までは胆沢郡、天正19年(1591)、豊臣秀吉による奥羽再仕置以後は江刺郡に属していました。
正法寺開創に際しては、黒石の領主、黒石越後守正端と磐井郡長部の領主、長部近江守清長の二氏が境内地を寄進したと伝えられ、正法寺黎明期は北上川の要衝を占める豪族らによってその経営が支えられていました。
無底禅師の法統を嗣いだ月泉良印禅師は本吉郡から磐井郡金沢(花泉)へと移入した氏族、熊谷氏の出身であったことから、江刺、胆沢、磐井地方を中心とする豪族の帰依を得、多くの寺領の寄進を受け、伽藍を整え[月泉四十四資]と称される門弟を派遣して多くの末寺を設けました。
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康安2年(1362)
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寿雲良椿和尚書写
永正9年(1512)
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永正10年(1513)
第2章 正法寺と仙台藩
江戸時代に入ると徳川家康は寺院や宗派に対する法度を出し、本山による末寺や僧侶の統制を行いました。そのため、元和元年(1615)には曹洞宗の本山は永平寺、總持寺に限られることとなり、正法寺の[奥羽両国の本山]の格式は失われることになりました。
しかし、格別由緒の寺院として仙台藩主の崇敬を受け、当初30石、元禄年間からは75石の寺領を得て、伽藍のうち、山門、仏殿、法堂(本堂)は藩主が修復するしきたりとなり、仙台藩における正法寺の寺格も[一門格]に次ぐ[御盃返上格]として藩主の菩提寺や祈願所に伍して高い地位にありました。
慶長14年(1609)
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伝 伊達綱村寄進
エピローグ みちのくの禅道場と地域信仰
正法寺は夏冬の二期に[結制安居]を修することができる[常恒会]によって僧侶を養成してきました。この[常恒会]を行えることは禅道場として最上の格式の寺院であることを意味しています。
禅道場では衣食住などについて厳格で簡素な生活をおくり、貪欲などの欲望をはらいのける修行をおこないます。その行法の中に食を乞いながら野宿などをして旅を続ける[頭陀行]があり、次第に頭陀といえば托鉢して廻ることを指すようになりました。
正法寺では、古来より江刺、胆沢、磐井で頭陀を行ってきたので、これを[三郡頭陀]と称してきました。二代月泉禅師の頃には葛西清泰、黒石正端、長部重義らの領主によって三郡頭陀が認められており、これが習慣化するに従って頭陀料も定額化し、正法寺の有力な財源となっていました。また、江戸時代になると、各村の肝入が施米を取りまとめ、[大般若祈祷札]と引き換えに頭陀行に応じていました。
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弘化3年(1846)
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