江刺金札米100周年記念博物館 豊穣を拓く―江刺金札米の往古来今―
- 開催期間
- 令和3年11月20日(土)~令和4年3月27日(日)
休館日:1月1日
- 時間
- 9:00~16:00(3/1より17:00閉館)
- 会場
- えさし郷土文化館 センター棟(常設展示棟)
- 主催
- 江刺金札米100周年記念行事実行委員会
- 協力
- 岩手県県南広域振興局、えさし郷土文化館(事業主幹)
昭和44年(1969)の自主流通米制度の発足を契機に各地で開発された新品種が続々と発表され、数多くのブランド米が誕生しました。
その中でも「江刺金札米」は、大正時代の「陸羽132号」の導入を発端に全国最高位の格付け評価を獲得し、国内にその声価を広めた我が国最古のブランド米ともいわれています。
その誕生から今年で100周年を迎えることから、江刺地方における近代稲作の歩みと先人たちの研鑽を学び、かつて米穀市場にセンセーションを巻き起こした「江刺金札米」の歴史を探ります。
江刺金札米の誕生
都会では電気が普及し、デパートでのショッピングが一般的になり、活動写真や舞台芸術、ラジオ放送やレコード、高校野球や六大学野球が始まるなど、大衆娯楽の拡大とともに消費社会が幕を開けた時代でもありました。
明治期から大正13年頃までの中央市場における岩手米の評価は低く、沢手米(濡米)、岩手のアヒル米(アヒルも食べないという意味)などと酷評され中央市場での価格も全国最下位でした。当時栽培されていた岩手米の主な品種は「亀の尾」系統と「豊国」系統でしたが、亀の尾は米質こそやや良いものの、病害に弱く、豊国系統は米質が劣っていました。農家では優秀な品種の出現を待望していた中で登場したのが、国立農事試験場陸羽支場の開発品種「陸羽132号」でした。
岩手県に陸羽132号が移入されたのは大正10年(1921)に秋田県大曲町陸羽支場(現大仙市)から岩手県立農事試験場胆江分場(現岩手県農産物改良育苗センター)へ水稲の品種比較試験として2.5合(約830g)の種子が配布されたのが端緒です。その後、栽培試験が行われた結果、亀の尾より17%増収、凶作年でも7~9%の増収、草丈短く強稈で、病害に強く、米質、食味とも優れており、年による豊凶の差が少ない等の結果を得ています(大正13年~昭和8年までの10ヵ年平均)。
同時代を生きた宮澤賢治は「陸羽132号」が稲の大敵であった「いもち病」の被害が少なく、冷害にも強いことを評価し、農家に作付けを勧めたことでも知られています。
この品種は大正4年当時の秋田県大曲町農林省農業試験場陸羽支場での人工交配によって誕生。江刺郡稲瀬村の出身で同場技師であった岩渕直治らによる選抜育成のもと「陸羽132号」と命名され、大正10年に初めて東北各県の農事試験場に種籾が配布されました。以来、岩手県立農事試験場胆江分場では県水稲品種に直ちに編入して江刺郡内でも普及奨励が進められました。その結果、大正13年の江刺郡各地の俵米品評会では陸羽132号が他品種を凌いで全点数一等を独占。これを受け、江刺郡農会では岩手県初となる一郡規模による俵米の共同販売を決議しますが、これに胆江郡内の米商連が反発。不買運動にまで発展したため、江刺郡農会は俵米の東京直移出を計画。翌14年2月に東京深川市場に試食用米を送り、その評価を求めたところ、「申分なき出来ばえ」と他県産米を大きく上回る最高格付を獲得し、一躍江刺産米の名声を中央市場に轟かせました。
東京深川市場での予想を上回る高評価に生産者たちも奮起し、江刺郡農会会長の小澤懐徳は、中央市場への移出米は陸羽132号上米三等以上を出荷とし、さらに籾摺は岩田式籾摺機の使用に限定。岩手県穀物検定所岩谷堂出張所の仲介により、東京深川の木村徳兵衛商店(現木徳神糧K.K)を唯一の委託販売先として大正14年4月以降、中央市場への流通を展開。その結果、石当り(150kg)平均33円31銭のとき、江刺米は39円87銭と20%もの高値取引となって江刺産米はもちろん、岩手県産米の声価向上にも大きく貢献しました。
江刺郡農会では江刺産米に「味のよい岩手江刺米」および郡農会マークを表した赤札を付して改良米であることを判別できるようにしたため、東京市場ではもちろん京浜市場でも「江刺赤札米」の異名をもって取引されていました。その名声が高まるにつれ類似の模造品が横行したため、昭和5年からは岩手穀物検定所の許可を得て「金札」を付け、米俵一車中のうち一俵に「大黒様」の鋳像を含入するという画期的なプロモーションを展開。以来、「江刺金札米」は江刺産米の代名詞となり、「ササニシキ」「ひとめぼれ」の現代品種にもそのブランド名が受け継がれています。
岩手県立農事試験場胆江分場と講習生(昭和12年)
出荷米(岩手県立ふれあい公園 農業科学博物館提供)
岩渕直治
小澤懐徳
大黒様の鋳像
米札(昭和40年代)
品種の系譜図
年譜(大正後期~昭和初期)
大正後期 | ・「岩手米」は東京市場で最下位の評価。「沢手(濡米)」「アヒル米」と酷評。 |
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大正10年(1921) | ・国立農事試験場陸羽支場が開発した「陸羽132号」の種籾が岩手県立農事試験場胆江分場に配布。 |
13年 | ・胆江分場が同品種の普及奨励に注力、県水稲品種に編入。 ・江刺郡農会は俵米の共同販売を決議。これが胆江郡内の米商連の不買運動に発展。 |
14年 | ・郡農会は東京への直移出(出荷)を企画。東京深川市場に試食用見本米を送り、最高位の評価を獲得。 ・岩手県穀物検査所岩谷堂出張所の仲介で、東京市場での唯一の販売委託先に木村徳兵衛商店を決定。 ・東京市場への移出を開始。米俵に「味のよい岩手江刺米」と郡農会のマークを表示した「赤札」を付したことから市場では「江刺赤札米」の異名で取引された。 |
昭和3年 | ・昭和天皇の御臨幸に際し、「陸羽132号」の白米を献上。 ・江刺米の名声が高まるにつれ、「赤札米」の模造品が横行。 |
5年 | ・穀物検査所の許可を得て「金札」を付し、米俵一車中のうち一俵に大黒様の鋳造を包入。 ・「江刺金札米」は、昭和5~6年の政府買上げで全国最高の格付けとなり、業界に一大センセーションを巻き起こす。 |