#101 葉月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―㉒
2022年8月1日
○多くの批判はあったが!
この『義経再興記』には、様々な歴史学者より批判が加えられました。例えば、明治23年と29年(1890、1896)に重野安繹、明治24年に星野恒、明治26年(1893)に永田方正、アイヌ研究などが、成吉思汗説、大陸渡海説を否定しました。
また、新聞界からも批判があり、明治23年8月31日付けの「読売新聞」は「北海道地名の書き方」と題して、「北海道長官が読みにくい地名の改正命令を出したことを受けて、「彼のライニ(枯木の意味)の地名は「雷電」或いは「来年」の漢字を充て、遂に後人をして義経を附会せしめ、ペンケ、及びペレケには「弁慶」の文字を充て、原義を失わはしむるの如き将来そんぽ幣を絶つを得べきか」と記しています。
〇義経成吉思汗説を増幅!
このような批判があったにもかかわらず、明治28年(1895)に博文館より刊行された『新撰日本小歴史』という歴史教科書に「泰衡終に義経を攻む。義経遁れて蝦夷へ入る」と記されていました。このことは、教科書の著者である歴史学者の間にも、義経生存説・大陸渡海説を受け入れる雰囲気が未だに根強く存在したことを物語っています。
また、明治29年(1896)に、『国民小説』という雑誌に、福地源一郎(桜痴)作の「義経仁義主汗」という小説が連載されました。そこでは、義経が成吉思汗になっただけでなく、「仁義こそは国を治める基本であるから、仁義主汗と名乗った」などと、いかにも日本人に受け入れられやすく記述しています。
これら二つの著作物は、児童から大人にまで行き渡り、義経成吉思汗説の普及と定着に大きな役割を果たしたと言われています。
そしてそれは、当時の日本の大陸への拡張政策ともあいまっての人気とも考えられています。
ちなみに、私(相原)も考古学という方法で歴史を研究していますので、考古・人類学者からの批判もあったことを紹介しておきます。それは鳥居龍蔵(1870~1953)です。
明治38年(1905)2月1日付け「読売新聞」に「亜爾泰山頭の神鏡」という記事が掲載。その大意はアルタイ山に近い地より「正三位藤原秀衡朝臣」との文字を記した鏡が出土。このことは、源義経を直ちに連想させ、さらには義経成吉思汗説もまったく事実無根とはいえないのではないか」という趣旨の記事。
それに対し鳥居は、2月4日付けの同紙に、「鏡に「正三位藤原秀衡朝臣謹製」と記すのは、江戸時代に盛んに行われたこと。アイヌを仲介とした北方交易によって大陸に入り、たび重なる交易によって彼の地に収まった」との反論を加えました。
学問的に、その通りの指摘です。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任