館長室から

#117 師走 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑨

2023年12月4日

 今まで、『奥の細道』の旅の最終目的地は、義経終焉の地である平泉ではないかと述べてきました。事実、芭蕉が訪れた平泉は、陸奥国側では最北の地であることは確かですので、その可能性は高いと思います。しかし、芭蕉の目はさらに北へも注がれていたようです。

◆芭蕉の「平泉以北への眼差し」
 芭蕉が平泉を訪れた翌日の五月十四日も晴れでした。「曽良旅日記」には、「一 十四日 天気吉。一ノ関(岩井郡之内)ヲ立。四リ、一ノハザマ・岩崎(栗原郡也)、藻庭大隅。三リ、三ノハザマ・真坂(栗原郡也)。・・・・」とあり、一関から南下し、出羽方面に向かったことがわかります。
 しかし、『おくのほそ道』の本文には、真澄は平泉「以北」にも注意していたことが見えています。
 まず(平泉)には「先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。」とあります。
 また、(尿前の関)には「南部道遥にみやりて、岩手の里に泊まる。」とあります。南部とは南部藩、すなわち盛岡藩のこと、南部道とは南部藩領へ通じる道のこと、岩手の里とは宮城県の岩出山のことです。
 また、夷をふせぐとは、芭蕉は、衣が関の位置(恐らくは現在の関山丘陵の地か)が平安時代の朝廷と蝦夷の対立の際の防衛拠点と考えたことの現れでしょう。
 盛岡藩と仙台藩(伊達藩)は内陸部では、平泉より北に位置する江刺郡などで藩境を接していました。ですから芭蕉は明らかにさらに北方世界を気にしていたことは確実です。その背景には、この旅の目的の一つである西行の足跡をたどりたい、という思いがありそうです。

◆西行の足跡を跡付けたい
 石田洵氏は次のように記しています(『平泉をめぐる文学 芭蕉に至るロマンの世界』)。「芭蕉ははるか北の方に意識があったのでしょう。しかも、『おくのほそ道』を書き上げたのは数年後のことで、落ち着いてこの旅を振り返ってみると、できればもっと北に行ってみたかったという思いが強くなっていったと思われます。
 この旅で、地理的に最北の地は、平泉ではなく象潟(きさがた、現秋田県にかほ市)でした。その(象潟)の部分でも「西はむやくの関、路をかぎり、東に堤を築て、秋田にかよふ道遥に、海北にかまえて、浪打入る所を汐こしと云。」とさらに北方への眼差しがみられました。
 この『おくのほそ道』の旅の翌年、元禄三年(1690)、大津(現滋賀県)の幻住庵で書いた『幻住庵記(げんじゅうあんき)』に次のような一節があります。
 「うたふ啼そとの浜辺より、ゑぞが千しまをみやらむまでと、しきりにおもひ立侍るを、同行曽良何がしといふもの、多病いぶかしなど、袖をひかゆるに心たゆみて、きさがたといふ処より、越路におもむく。」(日本古典文学全集『松尾芭蕉集』)
(口語訳―善知鳥(うとう)が鳴く卒都(そと)の浜辺から、蝦夷の千島を眺めやる所まで行きたいものとしきりに心は逸ったが、同行の曽良という者が「病気の多い体で不安だ」と袖を引いて引き留めるのに心が弱り、象潟という所から越路へ向かった)
 芭蕉は西行に憧れていましたが、その西行が憧れた歌枕の地がさらに北にありました(『山家集』)。
 道奥の奥ゆかしくぞおもほゆる
 壷の碑そとの浜風
 芭蕉は多賀城で壺の碑(つぼのいしぶみ)を見たつもりでいましたが、西行の時代には壷の碑は現在の青森県七戸、そとの浜(外が浜)は陸奥湾沿岸と考えられていました。南部藩領の北遠の地です。

 このように、芭蕉が平泉以北の北奥の地へ大きな興味をもっていたことは確かと思われます。

「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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