館長室から

#1 皐月 江刺地区にヒトが住みはじめたころ

2024年5月7日

前任の相原康二館長さんが令和6年3月末で退任されたことにより、4月から館長を務めることになりました高橋憲太郎と申します。生まれも育ちも奥州市(水沢真城)です。みな様よろしくお願いいたします。
私が相原先生にお会いしたのは、学生のころで岩手県教育委員会の整理室にお邪魔し、旧江釣子村鳩岡崎遺跡の縄文土器や土偶を見せていただき指導を受けたのが初めてでした。私は大学卒業後には盛岡市・宮古市、そして退職後は奥州市と教育委員会を40年以上も渡り歩き、埋蔵文化財に関する仕事を続けてきました。特に宮古市では縄文貝塚を中心に発掘調査を手掛けてきました。この間も相原先生には折りにふれて、考古学的な分野や行政的な分野での指導をいただいてまいりました。
相原先生には15年間にもわたり当館の館長をお勤めいただき、平泉文化研究・江刺地区の歴史研究などについて、大いなる業績を残していただきました。本当に長い間お疲れさまでした。相原先生の執筆された文献・収集された資料・蔵書等はすべて当館に収蔵し、今後の調査研究に活用してまいります。また、当館の運営については引き続きご指導をいただきますようお願いいたします。

さて、今回ツキイチコラムで紹介する資料は『江刺市史 第五巻 考古資料篇』に掲載されている岩谷堂大名野遺跡の石斧です。刃先の部分だけを研いでいるので、「局部磨製石斧」という名前がついています。発掘調査による資料ではないため正確を期しがたいのですが、概ね旧石器時代の終わりころから縄文時代の初頭に伴うものと考えられます。最古の縄文土器は約1万5千年前に出現したとされますので、この前後の年代が考えられます。胆沢ダムの工事に伴って発掘調査された下嵐江遺跡の科学分析結果によると、1万9千年前から1万7千年前にかけて遺跡周辺は寒冷で積雪量の少ない比較的乾燥した樹木の少ない環境から、冷温帯落葉広葉樹が分布しクリ(乾燥地性)やトチノキ(湿地性)などが生える環境へと変化していることが確認されています。大名遺跡の石斧が作られたのもちょうどこのころだと思われます。氷河期の最も寒い時期が終わり、少しずつ暖かくなってきた時期に相当しますが、それでも平均気温は今よりは何度か低かったと思われます。
奥州市内では胆沢地区の上萩森遺跡や、前沢地区の水尻遺跡などから約3万~2万年前の石器がみつかっていますので、今後調査がすすめば江刺地区の歴史も同じころまで遡る可能性はあると思います。

江刺地区にヒトが住みはじめたころ
髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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