#26 皐月 考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった⑩―
2016年5月1日
◇都市平泉の中枢・柳之御所遺跡(平泉舘)①
国指定史跡で、世界遺産への追加登録を申請中の柳之御所遺跡は、奥州藤原氏の政庁「平泉舘」である。初代清衡さんが熱望した「この世を浄土とする」ためには政治の安定が不可欠であったが、「平泉舘」はその拠点であった。
「平泉舘」の跡である柳之御所遺跡は、北上河岸に立地し、高館山の麓から新高館橋の袂までの最長550㍍、北上川から猫間が淵までの最大幅200㍍、総面積112000㎡に達する。そのうち、東南半部の堀で囲まれた堀内部地区が直接的行政機関域、その西北に隣接する堀外部地区は奥州藤原氏一族の屋敷地や祭祀関連地区と推定されている。さらに隣接する高舘山にも12世紀の堀跡が確認されている。従って「平泉舘」は堀内部地区・外部地区・高館地区で構成されていたことになる。
◆清原氏の居館の型を踏襲したか?
初代清衡さんは幼少期から青年前期までを清原氏の一員として過ごしたが、その清原氏の居館と判明しているのが大鳥井山(おおとりいやま)遺跡(横手市)である。10世紀後半から11世紀末まで存続したこの遺跡は、横手川の段丘の縁を二重の堀で囲んでいるが、その郭内に2つの丘(小吉山と大鳥井山)を取り込んでいる。この丘を取り込む構造は、桓武天皇の朝廷によって延暦20年(801)頃創建された払田柵(ほったのさく)(大仙市・美郷町、真山(しんざん)と長森(ながもり)がある、第2次の雄勝城(おがちじょう)か)と同様であり、恐らく清原氏は払田柵を真似たのであろう。そして清衡さんも大鳥井山を真似た柳之御所を建設したのではなかったか。安倍氏・清原氏・奥州藤原氏には様々な共通性が存在するが、この構造もその一つである。
◆堀内部地区(直接的行政施設地区?)の遺構
*堀―遺跡の東南半を取り囲む2本の堀(外側が古く内側が新しい?)は、上幅10㍍前後、深さ3㍍前後の大規模なものであるが、基衡の治世後半頃には機能を失い、埋まるに任されていた。その創建期には、北上河の断崖上への立地に加えて、さらに堀を廻らせて厳重に防備された平泉舘は、堀を必要としなくなっていった。即ち、平和が確立されたことを物語る物的(考古学的)証拠である。
△橋・道路―いずれも内側の堀に架けられ、舘の南と東、北西の位置に発見。橋に通じる道路跡が堀の内外に確認されており、舘の内外を結ぶ道路・橋であったことは確実である。残存した橋脚などの木材にはクリ材を使用しており、八角形に面取りされた材もあった。
以上の他、南に隣接する無量光院跡から猫間が淵中へ向って北東方向に伸びる張り出し部が存在するが、これも橋の存在を示唆する。『吾妻鏡』は、三代秀衡は日常生活は伽羅之御所、個人的祈祷は無量光院、公務・政務は平泉舘で行っていたことを示唆しているが、橋の遺構の在り方は、そのことを実証しているようである。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任