#30 長月 考古学から「平泉文化」を考える 奥州藤原氏の地域支配③―「人々給絹日記」が示唆すること(2)―
2016年9月2日
◆記された人物はどこの誰か?
記載された人物の特定については諸説あるが、ここでは斎藤利男氏(さいとうとしお・弘前大学)説を主に紹介しよう(斎藤利男『平泉 北方王国の夢』より)。
「(発掘者が推定したこの文字の年代、即ち「12世紀の70年代」は秀衡の治世であるので)
①苗字が記載されていない信(しんじゅ、或はしず)太郎・小次郎は秀衡長男国衡(くにひら)と次男泰衡(やすひら)、四郎太郎は藤原一族の子弟か?
②「殿」が付かない橘藤四郎(きっとうしろう)・橘藤五(きつとうご)は秀衡側近の実務官僚としてその名が『吾妻鏡』に出て来る豊前介(ぶぜんのすけ)清原実俊(きよはらのさねとし)・実昌(さねまさ)兄弟、瀬川次郎(せがわじろう)は奥六郡の武士(花巻市瀬川?)で秀衡側近か?
③「殿」が付く大夫小大夫(だいぶこだいぶ)は藤原氏第一の家臣であった信夫(しのぶ)(福島市飯坂)佐藤氏の子息か?
④「殿」が付く海道(かいどう)四郎・石埼(いしさき)次郎・石川三郎・石川太郎は、秀衡に近習(きんじゅ)として仕えていた南奥(福島)の武士の海道・石埼・石川氏の子息か?これら11人の名前が、用意されるべき衣装の内容(赤根染白カリキヌハカマ(狩衣・袴)、赤根染綾水干袴(あやすいかんばかま)、紺大目結(こんおおめゆい)ヒトエなど)や布帛(ふはく)(織物・布)の寸法と共に記されている」
◆別の説もある!
*大石直正氏(おおいしなおまさ・東北学院大学)は、平泉の舘(柳之御所遺跡)内には衣服の縫製・染色・管理・給与などを担当する機関が存在し、そこに配置された実務家が作成したメモと推定。
ここに記された人物は、平泉藤原氏の子弟と、大方は奥六郡とその南隣(石川氏のみは南奥か?)に所領を持つ藤原氏近臣の家の若者か?このメモは彼らによる何らかの日常的は行事に関連するもので、その行事は彼らの結びつきを強化するものではなかったか?とした。
また、大夫小大夫は平泉の鎮守の中の最高格の「中央惣社(ちゅうおうそうじゃ)」の禰宜(ねぎ)(神官の一)と推定。
*岡田清一氏(おかだせいいち・東北福祉大学)は四郎太郎は樋爪俊衡(ひづめとしひら)の子息の一人と推定(但し、俊衡は太郎である)。
*七海雅人氏(ななうみまさと・東北学院大学)は瀬川次郎は稗貫郡瀬川(花巻市瀬川)に所領をもつ文士(ぶんし)(実務官僚)とする。
*入間田宣夫氏(いるまたのぶお・東北芸術工科大学)は石埼次郎は胆沢郡石崎(いしざき)村(具体的位置は未詳)に所領をもつ武士とし、大夫小大夫は信夫佐藤氏(福島)の一族と推定。
◆「殿」の有無について
奥州藤原氏の子弟と推定された3人以外の人物には「殿」の有無の別がある。これについて岡田清一氏の説がある(岡田清一『鎌倉幕府と東国』)。
「このメモは秀衡の身近に仕えた右筆(ゆうひつ)(文書作成役)のような人物によって書き残された絹の装束を与えた際の備忘録的なメモではないか。鎌倉時代の武士の主従関係は、譜代(ふだい)の家臣(かしん)というべき「家人(けにん)」と、新参者(しんざんもの)というべき「家(かれい)・礼(けらい)」に二大別される。家礼は主君(ここでは奥州藤原氏)に対して去就向背(きょしゅうこうはい)の権利を保持し、結びつきは比較的弱い。また京下りの実務官僚も記されており、このメモの「殿」が付されたものは「家礼」に当り、実務官僚とともに主従関係を再確認・再認識するために、絹の装束を与える行為が行われたのでないか」
「殿」の有無が「家人」「家礼」に対応しないかとの指摘は魅力的ではある。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任