#64 文月 岩手の経塚群 ―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑮―
2019年7月4日
◇盛岡市
▼湯壺(ゆつぼ)経塚― 盛岡市湯沢(ゆざわ)の山麓扇状地に立地し、標高約215㍍、平野部との比高85㍍。
塚状の地形より12世紀後半の常滑産の二筋文壺(にきんもん・こ)が出土し、経塚と推定された。岩手郡の西南端を結界するかのような地である。
▼内村(うちむら)遺跡― 盛岡市下飯岡(しもいいおか)に所在。盛岡市南部に広がる平野部上の微高地に立地し、標高約128㍍前後。
1934年(昭和9)にリンゴの樹の根元より掘り出され、12世紀後半の常滑産の甕と判明。なお、他に壺2個も出土したという。
▼一本松(いっぽんまつ)経塚― 盛岡市繋(つなぎ)の湯舘山(ゆのたてやま)の頂部に立地し、標高約357㍍。山の頂部に「一本松」と呼ばれた松樹があり、その根元にあった石積みの中から掘り出されたという。経壺と思われる壺は渥美の大アラコ窯産の壺の優品で、12世紀だい2四半期の作である。後述の越戸内経塚出土の壺に酷似している。
◇二戸郡
▼西方寺毘沙門堂(さいほうじ・びしゃもんどう)経塚― 一戸町西方寺に所在し、馬淵川(まぶちがわ)西岸の河岸段丘高位面に立地。標高約190㍍、前面の水田との比高約50㍍。
毘沙門堂裏山の尾根頂部に、2基の円形の塚が南北に並んで所在。その規模は、下底部の直径6・5㍍と4㍍、高さは共に1㍍未満である。2基とも掘られており、出土状況は不明であるが、平安時代末~鎌倉初の珠洲系の波状文双耳壺(はじょうもん・そうじ・こ)が出土し、経塚と推定された。
▼土踏まずの丘(つちふまずのおか)経塚― 旧浄法寺町御山(おやま)に所在。安比川(あっぴかわ)東岸の丘陵端部に立地し、標高約252㍍、水田面との比高約80㍍。
1916年(大正5)、赤塚治持が発掘し、詳細な記録を作成した。1959年(昭和34)、板橋源(いたばし・げん)が、これに若干の訂正を加えて改めて公表された。出土遺物は1920年(大正9)に帝室博物館所蔵となった。
1986年(昭和61)に町教育委員会が地形測量他の調査を行った。それらを総合すると、「平面形は隅丸のやや不整な台形で、下底部の規模は長軸約80㍍、短軸約50㍍、頂部は10×7㍍の不整な楕円形をなし、頂部と裾部の比高12~16㍍。塚を囲む2~4本の段状の高まりがある。頂部に礫が分布する。」
赤塚・板橋の報告には、完形の短頸壺(たんけいこ)と壺、波状文壺、甕の下半部、完形の刀子(とうす)各1点の図がある。短頸壺と壺は猿投(さなげ)産、波状文壺は珠洲系の四耳壺で、いずれも12世紀後半代のものである。
東北地方でも稀な大型の経塚であり、「土踏まずの丘」の呼称は、この地が清浄な地で、一切の人がこの丘に登ることを禁じていたことに由来しよう。平安時代に創建されたと思われる天台寺とは、谷を挟んで580㍍の位置に有り、天台寺を背景に築かれた経塚であろう。また、この地が出羽国方面と結ぶ重要な交通路に面していたことも関係しよう。
◇気仙郡
▼越戸内(おっとない)経塚― 陸前高田市矢作(やはぎ)町に所在。旧折目(おりめ)八幡社の裏手の山地の山麓先端部に立地し、標高約58㍍、前面の沖積面との比高約23㍍。1928年(昭和3)に壺が掘り出され、渥美の大アラコ窯産の壺と判明した。1140年代の作。
なお、南東約250㍍に所在する観音寺の本尊は11世紀頃の十一面観音立像である。この地が宗教的雰囲気の強い地であったことを示唆している。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任