館長室から

#68 霜月 平泉遺跡群出土の重要文化財再見③

2019年11月1日

以下には、遺物の種類別に順に紹介します。

◆磁器・陶器・土器・土製品②

▽陶磁器―『かわらけ』に次いで出土量が多いのが国産陶器と中国産陶磁器です。

〇国産陶器―八重樫忠朗氏の産地別研究によると、平泉遺跡群出土の陶磁器類の90%以上を現愛知県知多(ちた)半島産の常滑(とこなめ)・猿投(さなげ)焼き、同渥美(あつみ)半島産の渥美焼きの陶器で占めています(以上、旧三河国)。

残りの20%を、現石川県珠洲(すず)市産の珠洲焼きと(旧能登国)、奥州藤原氏が奥羽の地元で生産させた陶器、及び中国産陶磁器で占めています。

また、渥美焼に酷似した陶器を宮城県石巻市水沼(みずぬま)窯跡・平泉町花立(はなだて)窯跡で、さらに、珠洲焼きに似た陶器を秋田県能代市(旧二ツ井町)エヒバチ長根(ながね)窯跡で、12世紀に限定して焼いていたことが判明しています。水沼の「渥美焼きもどき」の陶器は、北上川を利用して舟で平泉へ運ばれたのでしょう。

これらの事実は、奥州藤原氏が奥羽両国に新たに陶器産業を興そうとしていたことを示唆しています。

常滑・渥美焼きの基本的な器種(器形)は、甕(かめ)と壺、片口鉢(かたくちはち)の3種です。片口鉢は捏鉢(こねばち)とも呼ばれた調理の万能器でした。その他に山茶碗(やまじゃわん)・山皿(やまざら)があり、これらが普段の生活に用いられた日常雑器(ざっき)でした。

これらの日常雑器に対して、常滑焼きには二筋文壺(にきんもんこ)や三筋文壺(さんきんもんこ)、渥美焼には袈裟襷文壺(けさだすきもんこ)や紅葉文(こうようもん)・唐草文壺(からくさもんこ)等といった文様を持つ壺が出土しています。窯元地の研究によると、文様を持つ陶器(刻画文陶器(こくがもん・とうき))は高級品、特注品と見なされています。陶器の窯元にとって、奥州藤原氏は一大スポンサーだったのでしょう。

奥州藤原氏の支配範囲において、常滑の三筋文壺や渥美の袈裟襷文壺等が経巻(きょうかん)の容器として経塚へ埋納されることが多いのは、その高級性の故でしょうか。

〇貿易陶磁―外国から輸入された陶磁器で中国産・朝鮮産・西アジア産などがあります。

中国産陶磁器には白磁(はくじ)・青白磁(せいはくじ)・青磁(せいじ)等の磁器に加え、黄釉褐彩(おうゆう・かっさい)陶器などがあります。

器種は、白磁には四耳壺(しじこ)・碗(わん)・皿・水注(すいちゅう)・梅瓶(めいびん)が、青白磁には碗・皿・合子(ごうす)、青磁には碗・皿等があります。

当時の中国の江西(こうせい)省や福建(ふっけん)省・広東(かんとん)省などで白磁が大量に生産されており、それらが寧波(にんぽう)の港から博多(はかた)へもたらされました。当時の日本において、中国産陶磁器が大量に出土するのは京都・博多、そして平泉の3ヶ所だけといわれます。

柳之御所遺跡の井戸跡より、その全体を黒漆をしみ込ませた布でくるんだ白磁四耳壺が出土しました。本来の白磁の器面を隠し、蒔絵(まきえ)あるいは螺鈿細工(らでん・さいく)の手法で、器面に新しい文様を付けようとしたが、うまくいかなかったので、12世紀の末に棄てられたものと考えられています。奥州藤原氏の独自性の主張でしょう。

#68 霜月 平泉遺跡群出土の重要文化財再見③
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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