#4 文月 江戸時代の旅日記を比べ読む
2014年7月1日
多くの旅人が江戸時代に「いわて」の地を訪れ、多くの日記を残している。中でも、ほぼ同時期に、同じ地域を旅した人物があれば、その日記を通して、様々な興味深い比較ができる。
その例に該当するのが、菅江真澄(すがえ・ますみ)と古川古松軒(ふるかわ・こしょうけん)である。
菅江真澄は天明五~八年(1785~88)の足かけ4年間「いわて」の地に滞在し、7つの日記を残した。念願であった蝦夷地(北海道)渡航を3年間待てとの善知鳥(うとう)神社の神託に従っての「いわて入り」であった。秋田藩より盛岡藩に入り、主に仙台藩領胆沢・江刺・東西磐井郡に滞在し、再び蝦夷地を目指して北上するまでの間の滞在である。
古川古松軒は天明八年、幕府巡見使の一員として東北各地を廻り、秋田藩領より安代などの盛岡藩領へ入り、さらに南下し仙台藩領を廻って江戸へ戻ったのであった。
天明五~七年(1782~87)の飢饉の直後の東北地方を旅したこの二人の日記に、」食事についての対照的な記述があるので紹介する。
*菅江真澄の『けふのせばのゝ』天明五年九月六日の部分―常に疲れたので小鳥谷(こずや、現一戸町小鳥谷)で一夜の宿を頼んだ。「よね(米)てふものひとつぶ(一粒)も持たねば、やど(宿)すことかなうまじ」と断られたが、無理に泊めてもらった。そして「粟の飯に、しほづけ(塩漬)の桃の実そ(添)へてくれたり。をの(己)れらは粟のみ(喰)ひぬ。
この記述から、真澄が、無理して泊めてもらったうえに、一菜ながら歓待されたことを知り感謝していることがわかる。
*古川古松軒の『東遊雑記(とうゆうざっき)』天明八年九月六日の部分―東北北部の食事の貧しさのほとほと辟易していた。旧安代町田山において「御馳走とて取り揃えて出せる料理、この二、三日は各おのふた(蓋)をとらずして焼飯を好み、今幾日にて盛岡の城下に出ことと、それを楽しみにして堪忍せしことなり。この夜出せし菜を見れば、豆腐の油揚に大鰌(おおどじょう)を二つ入れてあり。皆みな驚き入りしたことなり。このことを以て諸事を察し知るべし。
田舎料理に飽き飽きしている様子がわかる。古松軒は優れた地理学者であったが、食事についてはこのような評価を下していた。
このように旅日記の比べ読みは、さまざまな観点をもたらしてくれるのであり、お勧めしたい。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任