#13 卯月 東裏遺跡の土偶の胎土分析
2015年4月2日
昭和48年に衣川区下衣川に所在した東裏遺跡を発掘調査した。当時は東北自動車道建設関連の発掘調査が県南部各地で行われており、東裏もその一つであった。
この遺跡は、衣川の西岸に形成された河岸段丘の比較的高い地点に竪穴住居が建てられ、その周囲の低い部分に土器や石器、その他の道具類が堆積された縄文時代晩期のムラの跡であった。調査地は大量の遺物類が堆積した遺物包含層に該当した。
なお、この遺物包含層は、単なる破損した道具の廃棄の場所ではなく、その再生を願って道具類を置いた「物送りの場」と思われる。
そこからは土器・石器・土製品・石製品など大量の遺物群が出土し、縄文時代晩期(前半)の豊かな生活ぶりを窺わせた。
中にはカルカロドン・メガロドンという太古の巨大サメの歯の化石が10個以上も出土し、縄文人がそれを垂飾りなどの装飾品に加工しようとしたと推定された。この歯は毛越寺などで大蛇の牙などとして保管されているものと同じである。
衣川や平泉周辺からは、クジラの化石やカキの化石が出るなど、太古の生物異存体が出土することで有名である。
▲大量の土偶が出土ー東裏遺跡からは数十個の土偶の破片が出土した。縄文晩期特有の遮光器土偶から写実的なものまで、いくつかのタイプがあった。
当時、土偶は、特定の集団が、特定の場所で作成していたのではないかとの仮説があり、筆者はそれに関するデータをこの遺物から得ようと決め、土偶の破片の胎土分析を実施することとした。
具体的方法は「岩石学的法」とし、当時、岩手県の高等学校地学指導の第一人者のT氏に依頼した。氏は土偶を剥片とし、岩石顕微鏡で土器の粘土に含まれる岩石を分析した。なお、氏の分析は、通常の粘土と所謂「化粧粘土」の違いを岩石学的に区別できた程の高精度であった。
分析の結果は、東裏遺跡の所在する北上川中流域の岩石・粘土が使用されていることが判明し、これらの土偶が東裏で焼かれた可能性を想定することができた。
このような分析を継続的に実施しなかったため、土偶の産地に関する研究は進んでいないが、土偶がどこで造られたかは、縄文時代の社会構造の在り方に迫り得る魅力的なテーマであり、今後も追跡されるべきである。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任