#16 文月 考古学から「平泉文化」を考える(2)
2015年7月1日
◆複合型・分散型都市「平泉」
近年の発掘調査によって、「都市平泉」は中心地区とそれを支える周辺地区で構成されていたことが判明しつつある。
▲中心地区―平泉拠点地区
北を衣川、東を北上川、南を太田川、西を山地で囲まれた範囲で、奥州藤原氏の政治・文化の中心をなす施設が集中している。奇しくも現在の平泉町の中心市街地に一致している。この範囲の北側に関山地区、東に平泉舘・無量光院地区、南に毛越寺地区と、3つのサブ拠点をもっていた。
この地区の外周には濠や土塁などの軍事的施設は造られず、鎮守の社で守られた「無城壁都市・平和都市」であった。
この地区内の寺院跡・道路趾には複数の軸線が見られるので、三代それぞれの都市計画によった「町づくり」が行われたのであろう。
▲平泉周辺地区―平泉の都市機能を分担!
近年の発掘調査で拠点地区の外にも遺跡が所在することが確認され、平泉の「都市域」が拡大された。
①下衣川地区―安倍氏時代の寺院跡の長者ヶ原廃寺跡や奥州藤原氏時代の接待館遺跡などが所在。当時の主要街道の「奥大道」が通り、七日市場などの地名が多いことから、平泉の経済的機能を果たした地区と推定される。
②白鳥館地区―北上川の屈曲部に位置し、丘の部分は川舟の見張り役、平地部では「かわらけ」や金属製品などを生産し送り出す川港の機能を果たしていたと思われる。
③長島地区―北上川の氾濫原の微高地や山裾に村の跡が所在し農業面で支えた地域。また「お大師さま」(伝教大師)の石像は12世紀の作とされ、「都市平泉」の北東の隅を結界すりとされる。
④祇園地区―太田川のさらに南の祇園地区に大型の掘立柱建物を確認。「都市平泉」の南の玄関的な施設があったものか。
⑤達谷地区―毛越寺から厳美渓へ向かう県道は往時の「奥大道」の跡とされる。それに面しており、関寺的な施設が存在したのではないか。
⑥骨寺村地区―一関市本寺地区に所在。中尊寺の経済を支えた経蔵別当の自在房蓮光の荘園があり、又、ここの窟屋に中尊寺と毛越寺の鎮守の神が歓請されている。奥州藤原氏の首都「平泉」は、このように複合型・分散型の平和都市(浄土都市)であったのである。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任