#19 神無月 考古学から平泉を考える―平泉は確かに「都市」であった③―
2015年10月22日
◆ 平泉で行われた「都市的な祭り」
先に紹介した「寺塔已下注文」に平泉で行われていた「年中恒例の祭り」が記されている。
▲2月には常楽会(じょうらくえ)が催された。釈迦の入滅(にゅうめつ)した十五日に涅槃像(ねはんぞう)を安置し、又は涅槃図をかけてお経を唱え、舞楽も演じられて涅槃会(ねはんえ)とも呼ばれた。奈良興福寺の寿広(じゅこう)によって、貞観2年(860)に盛大な舞楽法会に改められた。
▲3月には千部会(せんぶえ)・一切経会(いっさいきょうえ)が行われた。千部会は祈願・追善・報恩などのため、法華経(ほけきょう)など千部の経文を千人の僧侶が読誦(どくじゅ)する盛大なもの。
一切経会は一切経を供養する法会で、延久元年(1069)の宇治の平等院から始まるという。末法に入ったと信じられた11世紀後半から一切経の書写と供養のための法会が盛んになり、12世紀には南都北嶺(なんとほくれい)の諸大寺社の恒例行事となり、管弦舞楽(かんげんぶがく)も行われた。奥州藤原氏も一切経の書写を盛んに行っており、その法会も京都に匹敵する盛大な法会を行ったのであろう。
▲4月には舎利会(しゃりえ)が行われた。釈迦の遺骨の仏舎利(ぶっしゃり)を拝礼・供養し釈迦の報徳に感謝する。舎利講(しゃりこう)・舎利報恩講ともいう。
▲6月には今熊野会(いまぐまのえ)・祇園会(ぎおんえ)が行われた。京都の東山の今熊野社は後白河法皇によって紀州熊野から勧請された社。京都の祇園社(咸心院)は牛頭天王(ごずてんのう)を祭り、夏場の疫病を予防する神として信仰され、盛大な祇園会が挙行された。祇園祭・祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)ともいわれた。田楽・獅子舞など様々な芸能が伴った。
▲8月には放生会が行われた。仏教の不殺生の教えに従って魚・鳥などを山谷池沼に放ち、併せて天下太平を祈ったもの。天暦2年(948)より国家的年中行事として盛大に行われた。
▲9月には仁王会(にんのうえ)が行われた。「仁王般若経(にんのうはんにゃきょう)」を講讃(こうさん)し、国を護り、災いを防ぐための国家的法会であった。平泉でもこの法会が行われたことは、奥州藤原氏の奥羽両国の安定・平和実現への強い決意を示すものである。
▲これらの祭礼に参加する僧侶・舞人(まいにん)・楽人(がくじん)の数も千人を超えていたことも記されている。
『吾妻鏡』の記載の大半は信頼できると評価されていることから、これらの年中行事が平泉で行われていたことは確実であり、平泉が京都を思わせる「都市的機能」を有していたことも確実であろう。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任