#27 水無月 考古学から「平泉文化」を考える―平泉は確かに「都市」であった⑪―
2016年6月1日
◇都市平泉の中枢・柳之御所遺跡(平泉舘)②
◆堀内部地区(続)
*堀立柱建物―50棟以上確認され、そのほとんどが床面積100㎡以上、柱間(はしらま)3.3m前後、四面廂付(しめんひさしつ)きの大型・高格の掘立柱建物群である。「ホッタテバシラ」という言葉は現在ではみすぼらしさを連想させるが、古代においては伊勢神宮や出雲大社など神社、そして宮殿までも皆この造りであった。
四面廂とは、身舎(もや)の全周に一間の張り出し部を付設した建物で、格の高い建物の特徴である。
この大規模・高格の建物群は池の北側に集中しており、池の周辺が、堀内部地区の中でもとりわけ重要なゾーンであったことを示唆している。12世紀後半には、大型建物集中部は北側へ移動している。3代秀衡の治世に何らかの改修工事があったことを思わせる。
*井戸(井戸状遺構)―大型建物集中部の周辺に60ヶ所もの多数の井戸跡を確認。開口部直径は1.2m、深さは1.5~8mまでと多様なタイプがある。構造は素掘(すほ)りが多いが、希に井戸枠を伴う例もある。
埋め土を見ると、放置され土砂が自然に堆積したものは少なく、多くは人為的に埋め戻されている。
井戸内からは「かわらけ」や折敷の破片から建物部材に至るまで様々な遺物が出土し、あたかも「タイム・カプセル」のようである。中でも注目すべきは井戸の底面から陶磁器の完全品や青銅製の鏡などの「貴重品」が出土するが多い事実である。これは、井戸水が濁ったり、水の湧く量が減少したりした場合、井神(いしん)(井戸の神様)に捧げものをして、回復を祈った呪(まじな)いの儀式が存在したことを示唆する。なお、節を抜いた竹竿が立てて埋め戻された井戸跡も確認されており、井神への信仰が存在したのは確実である。
*トイレ状遺構―直径1.5~2m、深さも同程度の円筒形の掘り込み(穴)で、中に漆黒の土と3×20cm前後の割箸状の細い木片やウリの種子などを出土し、60ヶ所以上を確認。
漆黒土に糞便の臭いはないが、割箸を太く長くしたような木片は籌木(ちゅうぎ)(糞箆(くそへら)、お尻の糞をかき取る、現在のトイレット・ペーパーの代用品)と思われるので、これらの穴はトイレか、糞便を処理する施設と推定された。平安時代の宮殿には「水洗式」のトイレが知られていたが、奥州藤原氏時代には「汲取り式」も存在した。
漆黒土には寄生虫の卵や植物の種子・花粉が確認され、当時の衛生状態・調理方法・食材・施肥・薬の調剤の方法などに関する貴重なデータ源になっている。
*その他―地鎮祭・幡(ばん)跡など祭祀遺構、塀・倉庫跡などを確認。さらに、工房は未確認であるが、織物・漆器・木器・金属器加工なども行っていたことを示す遺物が出土している。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任