#29 葉月 考古学から「平泉文化」を考える 奥州藤原氏の地域支配②―「人々給絹日記」が示唆すること(1)―
2016年8月1日
◆意外な出土遺物によって、奥州藤原氏に係る人物名が判明している。即ち、「人々給絹日記(ひとびときゅうけんにっき)」と書き出された墨書折敷(ぼくしょおしき)によってである。政庁平泉舘と思われる柳之御所遺跡の井戸跡より出土。一緒に出土した「かわらけ」の年代から12世紀の70年代、即ち3代秀衡さんの時代に筆記されたと推定。
なお、折敷とは個人用の銘々盆・銘々膳ともいうべきもので、宴席で個人の前に置かれた。折敷は「かわらけ」・箸とともに一回使い捨てされた、不要になった折敷の板を墨書のメモ用に転用したものであろう。以下にその全文と性格を示す(入間田宣夫『都市平泉の遺産』より、原文は縦書きである)。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任