#40 文月 考古学から「平泉文化」を考える 奥州藤原氏時代の農業
2017年7月4日
◆近年、考古学的な歴史研究は、さまざまな自然科学的研究方法と連携するのが一般的になっている。考古学的研究資料となるのは、発掘調査で得られた遺構(過去の人間が造った構造物)と遺物(過去の人間が造った道具類や生活の痕跡物)である。どちらにも「遺」という字が付いているが、これは「今日まで残った」という意味である。即ち、過去の人間が造った構造物や道具類のうちの、今日まで残ったものということである。ところが、有機質のものをはじめとして、過去の人間の造ったものの中には腐食して消滅してしまうものも多い。つまり、考古学は、過去の人間が造ったもののうちのほんの一部だけを資料として歴史を研究する方法ということになる。
この決定的な弱点を補うため、発掘調査で得られるあらゆる資料から、可能な限り細かいデータを引き出すことを目指して、様々な自然科学的分析方法が導入されるようになった。それらの成果を一部紹介しよう。
◆花粉分析、プラント・オパール分析
植物の花粉は土中に埋まってもその形を変えない強靭さを有している。遺跡より採取された土層の中に含まれる花粉を分析すれば、その土層の時代の植物相が、さらには当時の気候(古気候、古環境)が判明する。
さらに、植物珪酸体(プラント・オパール)分析も加えると、どのようなイネ科植物が生育していたかの手がかりも得られる。
柳之御所遺跡堀内部地区の園池跡・井戸跡に堆積した土層に対して行った花粉分析などによって次のようなことが判明した(パリノ・サーヴェイ社の分析、『柳之御所跡』報告書より)。
「(上略)井戸周辺はオオバコ属やオナモミ属などの人里植物や、キビ属・タケ亜科・ヨシ属・ウシクサ属・ススキ属・イチゴツナギ亜科などのイネ科植物が生育する開けた場所であったと思われる。
また、本遺跡の周りではマツ属・モミ属・ツガ属・ハンノキ属などが植生を構成していたと思われる。
なお、井戸跡21SE2からはイネ科植物に由来する植物珪酸体が多く検出され、井戸が埋没し始めた頃に、周辺で稲作が行われていたことを示唆している。
園池の中は長期間にわたって定常的に帯水せず、恐らく干上がっていたと考えられる(中略)
なお、周辺でソバ栽培が行われていた可能性がある。前述の稲作の存在と合わせて、当時の農業生産基盤の資料となる(中略)
検出された種実遺体(植物の種)は、周辺に生育し、生活に有効な種実であるキイチゴ属・ナシ属・オランダイチゴ属・ブドウ属・クワ属・グミ属・ガマズミ属・サンショウ、栽培のために渡来したと思われるウメ・モモ・エゴマ・ナス・メロン属・ヒョウタン類・イネ、周辺の植物相を反映していると思われるカナムグラやタデ科・オナモミ属・ホタルイ属などである。
このように人間にとって有用な植物が多く、いずれも古くから利用されていたと思われる。」
当時の柳之御所遺跡(平泉舘)周辺は開けており、そこで稲作や雑穀栽培が行われていたとの分析結果は、「都市平泉論」にとっても極めて有効なデータである。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任