館長室から

#57 師走 岩手の経塚群 ―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑧―

2018年12月1日

◇「都市平泉」(平泉遺跡群)出土の陶磁器類

平泉は、初代清衡が、奥羽地方統治のために新たに設けた「王城」であり、京都に次ぐ「都市」であった。『中尊寺建立供養願文(ちゅうそんじ・こんりゅう・くようがんもん)』にも、平泉は「四神相応の地(しじん・そうおうのち)」の王城として築いた、と記してある。その平泉町内に所在する多くの遺跡(平泉遺跡群)より各種の陶磁器が大量に出土している。

▼柳之御所遺跡の陶磁器
その代表的遺跡が、奥州藤原氏の政庁「平泉舘(ひらいずみのたち)」跡と推定されている柳之御所(やなぎのごしょ)遺跡である。陶磁器の内容を見よう。
先ず酸化炎(さんかえん)で焼かれた瓷器(しき)系陶器には、愛知県知多半島の常滑焼き、熱海半島の渥美焼き、豊田市の猿投焼き、宮城県石巻市水沼(みずぬま)窯産の渥美系の陶器がある。
還元炎で焼かれた珠洲系(須恵器系)陶器には石川県能登半島の珠洲焼と、秋田県能代市(旧二ツ井町)のエヒバチ長根(ながね)窯産と産地不明の陶器がある。
柳之御所遺跡では、常滑産と渥美産で、出土遺物の80%以上を占め、産地不明の須恵器系がそれに次ぎ、水沼・珠洲・エヒバチ長根・猿投は少ない。
経塚と異なり、大半が破片となって出土しており、器形を復元できるものは少ないが、常滑・渥美では大部分が甕形で、片口鉢(かたくちはち)がそれに次ぎ、壺は少ない。渥美産には文様を付けた刻画文(こくがもん)陶器が多くある。
中国産陶磁器では、白磁が多く、青白磁がそれに次、青磁は少ない。その他には黄釉褐彩(おうゆう・かっさい)四耳壺や褐釉(かつゆう)壺、絞胎(こうたい)を持つ陶器、詳細不明の陶器などがある。
白磁には四耳壺と碗・皿・梅瓶(めいびん)・水注(すいちゅう)などがある。これらへの好みは、鎌倉御家人と同様であるという(矢部良明氏)。

◇経塚と柳之御所の比較

政庁という生活遺跡である柳之御所遺跡と信仰遺跡の経塚出土の陶磁器を比較してみる。
まず容器としての器形の残存状態は圧倒的に経塚の方が良好である。
次に、経塚からの出土品は、常滑では三筋文壺や二筋文壺が大部分で、渥美では袈裟襷文などの優品(特注品?)が多い。珠洲(須恵器)系では波状文壺や有耳壺(ゆうじこ)が多い。柳之御所とは様相が明らかに異なり、埋経用の容器として特別に選択されていた器形が存在したことがわかる。白磁壺などの持つ「高級性」で、埋経を保護しようという意識が存在したものであろうか。

◇物流拠点「都市平泉」

平泉の地は、奥州藤原氏の拠点として、宗教的・政治的・経済的機能を果たしていた。初代清衡から三代秀衡に至る約100年間にわたって「町造り」が継続されていたことも判明しつつある。そこには全国から、あるいは大陸から人・物資・情報が流入し、また、発信されていた。
奥州藤原氏の奥羽支配を可能にした経済力は「産金産馬」に加えて「北方交易」の担い手として得られていた。それは、既述の『中尊寺建立供養願文』にも「オオワシの羽」や「水豹の皮」を確実に都へ送ったと記してあることからわかる。国産陶器の運搬ルートには太平洋航路と北上川舟運の組み合わせや、珠洲製品を運んだ日本海経由があったし、中国産陶磁器は博多を経由したルートが存在した。そのような物流システムによって陶磁器類が平泉へもたらされたのであった。

相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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