#60 弥生 岩手の経塚群 ―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑪―
2019年3月1日
◇旧胆沢郡の経塚
▼寺ノ上経塚―旧前沢町古城字馬込沢。中尊寺の北北東約9㌔に位置し、胆沢段丘の中位面の段丘崖の縁に立地、標高76㍍、東方眼下の平野部との比高41㍍前後。大林寺の上方である。
現在4基の塚が認められ、2基ずつが南北2列に並び、塚の規模は直径4.9~6.1㍍、高さ0.5~0.6㍍前後である。
1970年(昭和45)頃に南東部の塚が発掘され、12世紀後半の渥美産の壺と壺の周囲の空間に充鎮された法華経を墨書した「かわらけ」が大量に出土。経典容器の壺の周囲に、さらに「かわらけ教」ともいうべきものを副葬(一緒に埋納)した稀有の例である。奥州藤原氏の独自性の発露と解されている。
▼五輪(ごりん)経塚―旧前沢町白山字田高附近。北上川西岸の沖積面上の微高地に立地し、標高34㍍前後。付近に所在する田高(たこう)Ⅱ遺跡に12世紀後半の「手づくね・かわらけ」、渥美と常滑産の陶器破片を出土した井戸跡が発見されており、この周辺に奥州藤原氏時代の何らかの施設が存在していたものと思われる。
1935年(昭和10)頃の県道開設工事の際に五輪塚(ごりんづか)という塚から壺が2点出土。うち、現存するものは12世紀後半珠洲(すず)産の波状文壺(はじょうもん・こ)、所在不明になっているものは、小岩末治(こいわ・すえじ)氏の実測図によると、常滑産の二筋文壺(にきんもん・こ)である。
▼三子田(みこでん、神子田とも)経塚―旧水沢市佐倉河字谷地。胆沢段丘低位面上の平地部に立地、標高55㍍前後。かつては多くの塚があったという。12世紀前半の常滑の三斤門戸であり、埋経容器であろう。東京国立博物館所蔵。
◇旧江刺郡の経塚
▼豊田舘(とよたのたち)跡―旧江刺市岩谷堂字下苗代沢、通称餅田(もちた)地区(藩政時代の江刺郡餅田村)。西方眼下に北上川沿いに形成された江刺平野が広がる、低位の河岸段丘の縁に立地、標高50㍍。
太平洋戦争直後に、地内に所在した塚より白磁四耳壺(はくじ・しじこ)が出土。11世紀末~12世紀初期の中国福建省(ふっけんしょう)の産である。この時代は初代清衡の時代と合致し、豊田舘は清衡居館、さらにその父藤原経清(ふじわあのつねきよ)も居住、との伝承を裏付ける物証である。 なお、南に隣接する丘陵の尾根上に立地する五位塚墳丘群(ごいづか・ふんきゅうぐん)中には経清の墓が所在すると伝えられてきたが、経清が五位の位階(いかい)を有していたことは確認済みである。
▼万松寺(ばんしょうじ)経塚―旧江刺市岩谷堂増沢(ますざわ)(藩政時代の江刺郡増沢村)。人首(ひとかべ)河北岸の寺沢の最奥の、曹洞宗万松寺の境内に所在。南に張り出した山地の尾根の先端部に立地し、標高130㍍前後。
下底部の直径7.6㍍、高さ1㍍前後の円形の塚があり、そこから、1950年(昭和25)頃に地元民が壺を掘り出したという。12世紀後半の渥美壺の中に、経巻軸木とその装飾と思われるものが残存した。
本来は金色堂脇の経蔵に納められていたが、戦国末期に搬出され、現在、その大半が高野山金剛峰寺(こうやさん・こんごうぶじ)に移されている国宝、「紺紙金銀字交書一切経(こんし・きんぎんじ・こうしょ・いっさいきょう)」の一巻の奥書に次のように記されている。即ち、「元永二年(げんえい、1119)己亥(つちのと・い)五月廿五日庚午(かのえ・うま)午時於奥州江刺郡益澤院(ますざわいん)内書之畢 執筆修行僧堯暹(ぎょうせん) 大檀主(だいだんしゅ)藤原清衡 北方(きたのかた)平氏(へいし)」とある。
1914年(昭和16)発行の『中尊寺大鏡(ちゅうそんじ・おおかがみ)』において石田茂作(いしだ・もさく)氏は、この「江刺郡益澤院」を岩谷堂増沢地区と推定したが、それを証明する事実である。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任