#65 葉月 岩手の経塚群 ―12世紀、奥州藤原氏時代を中心に⑯―
2019年8月1日
◇宮城県
▼両沢(りょうさわ)遺跡― 気仙沼市西中才(にしなかさい)の、鹿折川(ししおりかわ)西岸の崖に開口した小さな石灰洞穴が埋経場所に選ばれたもの。標高約35㍍、平地との比高約15㍍前後。経壺と思われ12世紀後半代の常滑産の三筋文壺が出土。
▼田束山(たつがねさん)経塚― 旧本吉郡本吉町午王野沢・歌津町樋の口に聳える田束山の山頂に立地。標高512㍍。11基の経塚が確認されている経塚の山である。平泉町の金鶏山を連想させる。
調査された5号経塚は楕円形で、直径3.8~2㍍、高さ0.7㍍。主体部は五角形の石室で、底石の上に経筒が直接置かれ、空間に木炭が充填されていた。
調査によって青銅製経筒1点と経巻断簡と、乱堀の際に常滑産三筋文壺4点が出土。また、宝冠阿弥陀如来(ほうかん・あみだにょらい)座像も塚より出土。いずれも12世紀後半代のものである。
この田束山には、藤原秀衡が羽黒山淸水寺(はぐろさん・せいすいじ)、田束山寂光寺(たつがねさん・じゃっこうじ)、幌羽山金峯寺(ほろはさん・きんぽうじ)を再興したとされ、また金山の多い本吉郡に秀衡の四男高衡(たかひら)が配されるなど、奥州藤原氏とゆかりの深い地であった。
◇福島県
▼米山寺(べいさんじ)経塚(国史跡)― 須賀川市西川(にしかわ)。日枝(ひえ)神社境内の、阿武隅川と釈迦堂川の合流点近くの丘陵上に立地。1884・85年(明治17・18)に遺物が出土し、1976年(昭和51) に範囲確認調査が行われ、2群10基の塚を確認。
3号経塚より陶製外容器(がいようき)、銅製経筒、銅鏡・鍔(つば)・刀子(とうす)の残欠(ざんけつ)が出土。陶製外容器に箆書の銘文があり、「承安元年(じょうあん1171)、大檀主(だいだんしゅ)の僧圓珍・糸井・藤原・白井・藤井などの名称」が記されている。糸井以下の4名の名前は福島市天王寺(てんのうじ)経塚・桑折町平沢寺(へいたくじ)経塚出土の外容器にもその名前が見えている。
▼上ノ原(うえのはら)経塚― いわき市好間(よしま)町。好間川の西岸の河岸段丘注意面の縁に立地。標高約79㍍、前面の沖積平地との比高約34㍍。
1995年(平成7)に常磐自動車道建設関連で調査された。塚部は既に失われていて、(塚の中心部に)直径2.1㍍、深さ0.8㍍の円形の穴を掘り、その内部に大小の礫を充填し、中心に一辺0・3㍍の石室を築造。その中に銅製経筒が正立して納められていた。経筒外容器は伴わない。また、礫間より小刀と鉄鏃(てつぞく)・赤焼土器(あかやけどき)が出土した。
銅製経筒の中に「紙本朱書法華経(しほん・しゅがき・ほけきょう)」8巻と、それに伴う軸木(じくぎ)1本が良好な状態で残存していた。
その他、副葬品(ふくそうひん)として、小刀11口、鉄鏃6点、赤焼土器1点、白磁碗(わん)の破片が確認された。銅製経筒は12世紀前半代のものである。
◇まとめ
▼以上、岩手県内の12世紀代の経塚を概観した。奥州藤原氏の厚い浄土信仰の一部を窺うとともに、その独自性の発露・主張の一部も垣間見ることができた。
奥州藤原文化に対する評価は、1940年代までは極めて低いものであった。曰く、「砂金の力に任せた成金趣味」、曰く、「完成品を購入しただけの底の浅い文化だ」等々の評価である。
現在はその正反対で、「都の文化を真似たけれど、それに独自性を加味している、在地で生産されたものが多い文化」であるとの評価を受けている。経塚にもそのことがあてはまっている。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任