#71 如月 平泉遺跡群の重要文化財再見⑥
2020年2月16日
◆文字資料②
▽墨書折敷(ぼくしょ・おしき)①
当時の宴席で用いられた折敷(おしき、個人用のお膳的なもの)の板に文字が書かれたもの。宴席で即興に書かれたものや、メモ用の板に転用され書かれたものがあります。
*「人々給絹日記(ひとびと・きゅうけん・にっき)(人々に絹(衣)を給う日記)」
柳之御所遺跡の井戸跡より出土した折敷の板の表裏両面に文字が書かれている。板のサイズは30×23㎝の長方形、厚さ5㎜のスギ材。この板の年輪年代法(ねんりん・ねんだいほう)で測定すると西暦1138年(初代清衡治世)に伐採されたと判明。ただし、一緒に井戸から出た別の板材は1158年伐採、さらに「かわらけ」の年代が12世紀後半であるので、この文字は12世紀後半、即ち3代秀衡(ひでひら)時代に書かれたものと判断されました。
片面(表面)の文字は、板を横長に置いて縦書きされ、「人々給絹日記」との書き出しである。「人々に衣服を支給したメモ」の意味である。
そして12名の人名(石川三郎殿、石川太郎殿、信寿(しんじゅ?)太郎殿、小次郎殿、四郎太郎殿、橘藤(きっとう)四郎、橘□(藤?)五、瀬川次郎、海道(かいどう)四郎殿、石埼(いしざき)次郎殿、大夫小大夫(だいぶ・こだいぶ)殿、大夫四郎(だいぶ・しろう)殿)、それぞれに支給された衣服の種類や色(狩衣(かりぎぬ)、水干(すいかん)、袴(はかま)、袍(ほう)、アヲハカマ(襖袴))、茜染(あかねそめ)、白、紺、綾(あや)、ヒトエ、カサネ等)が記されている。12名のうちの3名には名字の記載がない、また、9名には「殿」と付き、3名には無い。
この内容について入間田宣夫(いるまた・のぶお)氏は次のように推定。まず、苗字の書かれていない3名は秀衡の子息達で、信寿太郎は長男国衡(くにひら)、小次郎は次男泰衡(やすひら)、四郎太郎は本吉冠者(もとよし・かんじゃ)と呼ばれた四男隆衡(たかひら)であろう。
石川・瀬川・石埼は平泉周辺の奥六郡(おくろくぐん)の地名を名乗る譜代の家臣の家人(けにん)
であろう。
橘藤四郎と橘□(藤?)五は、秀衡側近で、『吾妻鑑』にその名が見える豊前介実俊(ぶぜんのすけ・さねとし)、橘藤五実昌(きっとうご・さねまさ)の兄弟「官僚」であろう。
海道四郎は、現いわき市周辺の武士で、清原氏に婿入りし、後三年合戦の原因となった海道小太郎成衡(かいどう・こたろう・なりひら)の子孫であろう。大夫云云の2名は、現福島県飯坂方面の佐藤庄司(さとう・しょうじ)関連か。
片面(裏面)には、布の品質、布のサイズ・量などに関わる「上中下、五尺、疋(ひき)、切(きれ)、合(ごう)」などの文字がある。
両面共に、衣服の種類・色ほか、布の品質・大きさ・量に関する文字が記され、政庁平泉舘(せいちょう・ひらいずみのたち)の中に、衣服を司る役所があり、その担当者が、何らかの儀式の際に、一族及び武士達に支給した衣服に関するメモしたのではないか」と推定されました。
入間田氏は、嘉応(かおう)二年(1170)に、秀衡は従五位下(じゅごい・げ)鎮守府将軍(ちんじゅふ・しょうぐん)に任命されており、その盛大な祝賀会の際のメモではないか、とも推定しています。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任