#74 皐月 平泉遺跡群の重要文化財再見⑨
2020年5月1日
◆文字資料④
▽「磐前村印」の銅製印章
既に紹介した、黒漆を塗った布でくるまれた白磁四耳壺と同じ井戸跡に、12世紀の末に廃棄された銅製の印章です。
平川南(ひらかわ・みなみ)氏の考古学的検討内容を紹介します。即ち、
*釈文―磐前村印
*保存状態―良好で、一部に光沢が残る。印面の底に朱(しゅ)が付着しており実用品。
*特徴―印面は縦・横4.7㎝、厚さ0.7㎝、印面から紐(ちゅう、把手)の頂部までの高さ3.7㎝、重量167.4g。古代の郷印(ごういん)の平均3.3㎝よりも郡印(ぐんいん)の4.6㎝に近い。
印面は古代印に多い正方形ではなく、やや隅丸(すみまる)で彫りがあり、外側が低い。彫りは浅く、その断面は古代印の逆V字型ではなく、逆U字形を示す。
紐(ちゅう)は古代の公印(こういん)(倉印(そういん)・郡印(ぐんいん)・軍団印(ぐんだんいん)など)に多い孤紐無孔(こちゅう・むこう)。
字体は、郷印などの私印(しいん)に多い楷書体(かいしょたい)で、古代の公印(八省印(はっしょういん)・国印(こくいん)など)の篆書体(てんしょたい)とは異なる。
密度は約8.0g/㎝で、古代印の平均7.0と、近世印の8.5の中間的数値である。
歴史学者の入間田宣夫(いるまた・のぶお)氏は歴史学的に検討されました。
*村名に読み―「いわさき」或いは「いわがさき」か。
*村の所在地―「奥六郡」と磐井郡周辺に求めると、中尊寺文書に出て来る「伊沢郡石崎村(いさわぐん・いしざきむら)(旧前沢町内か)、或いは「人々給絹日記」墨書折敷に記された「石埼次郎」の所領と関連しないか。また、和賀郡岩崎(いわさき)(旧和賀郡和賀町)の可能性もある。
*出土の背景―奥州藤原氏の政庁「平泉舘」には奥羽両国の土地や租税に関する書類が備えられていたと『吾妻鑑』に出ており、このような印章が出ても不自然ではない。
*郡村制―12世紀以降の奥羽の統治システムは、それまでの郡郷制(ぐんごうせい)から郡村制(ぐんそんせい)へと移行しつつあり、奥州藤原氏も各村々に首人(おびと)を任命し、印章を下賜して、村を支配させていたのであろう。『吾妻鑑』には奥羽両国に一万余の村があったと出ている。」
この入間田氏の説が一般的に受け入れられています。
これに対して、同じ歴史学者の大石直正(おおいし・なおまさ)氏は、別の可能性を指摘しています。即ち、「この印章は奥州藤原氏以前の印章ではないか。また、磐前村の所在地は、「栗原郡岩ケ崎」(くりはらぐん・いわがさき)(旧宮城県栗原郡栗駒町岩ケ崎、現栗原市)の可能性があるのではないか。」というものです。
また、歴史学者の岡田清一(おかだ・せいいち)氏は、磐前村を福島県いわき市周辺に求めています。
様々な問題を含んでいますが、この印は、これまで不明であった奥州藤原氏の地域支配の在り方に関わる資料として、極めて重要なものです。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任