#80 霜月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―①
2020年11月20日
◆はじめに
今から約830年ほど昔の12世紀の末に、源義経は亡くなりました。
にも拘わらず、21世紀の今日まで、義経は生きて北方へ逃れ、さらに大陸へ渡り、終には成吉思汗になったという伝説が伝えられてきました。
それは何故でしょうか。何と言っても、そこには、日本人の多くがもっている「判官びいき」の心情が大きく影響したと考えられています。
◆「判官びいき」とは
一般的には、「不遇な身の上や、弱い立場の人に同情し、肩を持ったり応援する心情」をいいます。
判官とは、平安時代に置かれた検非違使の尉のことです。検非違使とは京都の治安を司った警察的権力で、尉とはその役所のナンバー3の地位です。「判官びいき」の判官とは「九郎判官」と呼ばれた源義経をさします。
平家追討の一大立役者であった義経は、人々から称賛されましたが、様々な失策や行き違いから、兄頼朝に憎まれました。奥州平泉へ逃れた義経は藤原秀衡の庇護をうけますが、その死後、頼朝からの圧力に耐えかねた秀衡の子の泰衡に襲われ、衣川舘で自ら命を絶ちました。
あえない最期を遂げた義経に人々は同情し、贔屓にしたことから「判官びいき」という言葉が生まれました。
◆高橋富雄氏の指摘
〇岩手県出身の偉大な歴学者の高橋富雄氏は、その著書『義経伝説―歴史の虚実―』中公新書の中で、「判官びいき」を「正しくて、しかも世に容れられない弱者に対する同情を、義経について典型化した国民感情」と定義しています。
さらに続けて、「「判官びいき」というのは、頼朝の正統的・合理的な冷たい要求に反対し、義経の自然な人間的要求を支持する心的態度であるから、形式的に言えば、むしろ非合理的な感情である。従って、義経を正しいというのは、政治や倫理における正当性ではなしに、人間としての真実ということであるべきであった。そのような、人間の情緒的な真実の主張が、政治や倫理における合法・正当・正義にすり替えられて、義経こそ正義の全面主張へ転化しているところに「判官びいき」の特色がある」と述べています。
この記述は、「判官びいき」には、単なる弱者への哀惜の念以上の内容があることを指摘し、それらを受け入れている日本人の心情に、やや問題がありはしないか?という指摘です。
〇同様の趣旨の指摘を池田弥三郎氏も表明しています(「判官びいき」『日本芸能伝承論』中央公論社)。「(上略)そのような集団的心理は弱者に大して正当な理解や冷静な批判を欠いた、かなり軽率な同情という形をとる(中略)つまり、江戸時代には、「判官びいき」という語は、義経その人への同情という第一義から進んで、一般的に、弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静な理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう日本人の心理現象をさして言っていたということになる」
すこし脇道に逸れましたが「判官びいき」にはかなり大きな問題が内包されていること示唆する文章として紹介しました。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任