#81 師走 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―②
2020年12月1日
◆東北地方の義経生存伝説・北行伝説について
さて、最初に東北地方の義経伝説を見ておきます。
〇平泉出発―義経の母方の従弟で年齢や背格好が義経に似ていたとされる杉目行信を身代わりに衣川舘に残し文治4年に北行開始。翌5年に自殺したのはこの行信であったとされます。
〇磐井郡―束稲山麓の長部の佐藤庄司の居館―猿沢村石清山観福寺(亀井六郎の笈)―
〇江刺郡―田原御免の弁慶屋敷―岩谷堂の岩屋戸山多聞寺(鈴木三郎の笈)―玉里次丸の玉崎神社(太刀・槍)―伊手の源休館―人首―五輪峠―物見山(種山)―姥石峠―
〇気仙郡―大鉢森山―鷹巣山―蛇山―判官山(黒山、住田町大股)―上有住の葉山―赤羽根峠(判官手掛けの松)―
〇遠野市―上郷細越で風呂を貰う(風呂家)―板沢で義経の乗馬が倒れる(駒形神社、お蒼前さま)―仙人峠―大峰山―六角牛山―笛吹峠―
〇大槌町―中村の八幡家(鉄扇、判官堂)―室浜(法冠神社)―宮の口(判官堂)―長者森―
〇川井村―小国―川井―箱石(判官神社、鈴久名の鈴ヶ神社)―中山(鞍懸山)―種戸口(弁慶の手形石)―
〇山田町―関口―浜川目の某家(後の判官家)―大沢山―十二神山―長内―長沢(判官堂)―
〇宮古市―津軽石の館山(判官館、判官神社)―八木沢(判官洞)―黒山(判官山、判官稲荷)―黒森山大権現(大般若経書写)―
〇新里村―蟇目の二股の出雲家―茂市の日蔭平の堂へ般若經奉納(後の判官堂)―鈴木三郎は宮古に残り横山八幡の神官となる―
〇田老町―乙部屋敷(義経の兜)―
〇普代村―不行道―卯子酉神社―
〇一戸町―小鳥谷川底家(粟を食べ短刀をおく)―
〇久慈市―大川目―久慈(諏訪大明神)―源道―侍浜―
〇八戸市―仮の館(館越)―小田(高館)―(京ヶ原・柏崎・類家稲荷・小田八幡宮・義経社・おかみ神社・法光寺に弁慶の礼状)―
〇青森県―壺の石文―馬門温泉―野内(貴船神社)―善知鳥神社―油川の修験堂(亀井六郎が飯を炊き、弁慶の笈)―十三湊の福島城の藤原秀榮・檀林寺―小泊―三要師峯(三用師峠)―三厩(もと立野)―竜飛崎の岩洞に正観音安置(義経風祈りの観音・竜飛山義経寺)―津軽海峡を渡り蝦夷地へ(蝦夷地分は省略)
このような伝説について佐藤隆氏は次のように推定しています(「北への逃亡るルート」『別冊歴史読本 十八巻十九号』1993年新人物往来社)。「これらの伝説成立の背景には「判官びいき」による民衆の伝承、社寺などの自己宣伝、座頭・比丘尼などの流浪の職業的語り部、修験山伏などが複雑にからんで成立したのではないか。そのルートが必要以上にジグザグを呈していたり、一行がお礼に置いて行ったものに笈が多いなどのことは、山伏修験の影を連想させる」(大意)
なお、義経一行が北方へ逃れたコース、立ち寄り先については次の著書が詳しく述べています。
*金野靜一『義経北行―史実と伝承をめぐって 上・下』2005年ツーワンライフ出版社発行
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任