#87 水無月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑧
2021年6月1日
◆奥州での「義経語り」
『義経記』は成立した当初から口承文芸として流布したと推定されていますが、その具体的姿は不明です。『平家物語』と同様に、盲目の琵琶法師が語り手であったとしても、琵琶の伴奏を伴ったか、語り口はどうかなどは不明です。また、伴奏を伴わない「素語り」とあったともいわれます。
もっとも、語り口は全国一律ではなく、各地域で語り方に変化が生じていたと推定されています(以下は森村宗冬氏『義経伝説と日本人』平凡社新書を参考にしました)。
このような地域的な変化の中で最も注目されているのが、東北地方の『義経記』語りです。
例えば、『義経記』の伝本の一つに衣川合戦の段を東北地方の方言で綴った「奥州本」というものがあります。これは『義経記』の流布本を底本としながらも、有名な弁慶の立ち往生の場面などは、かなり手が加えられています。『義経記』語りが東北地方で大いに歓迎され、語られるうちに、それを聞く人々の欲求がないまぜに混入した結果と考えられています。
「奥浄瑠璃」と呼ばれる口承文芸で義経語りは、この『奥州本義経記』を基礎として発展したものと思われます。奥浄瑠璃の「奥」は当然奥州の意味です。仙台を中心に東北地方で行われた独特の語り物です。仙台浄瑠璃や御国浄瑠璃とも呼ばれて、「竹生島之本地」「田村三代記」など多くの作品がありましたが、最も人気があったのは義経語りであったといわれます。
戦国時代の奥州を記録した『奥羽永慶軍記』に、天正年間(1573~92)奥州の白河付近(現福島県白河市)で「尼公物語(あまぎみ・ものがたり)」という語り物が座頭たちによって語られていたことが記されています。これは『義経記』の一部の「継信兄弟御弔の事」と同じであったようです。このほかにも、『義経記』より題材を採った多くのレパートリーが存在したと思われます。
◆東北・北海道の義経伝承
平泉以北の地に義経伝説を口承文芸から解明したのが、岩手の生んだ大言語学者の金田一京助(きんたいち・きょうすけ)氏でした(金田一京助「英雄不死伝説の見地から」大正14年(1925)『中央史壇』臨時増刊号『成吉思汗は源義経にあらず』所収)。
「所謂中世の暗黒時代といわれる永いこの戦国の世から近代にかけて、下層の巡遊伶人(各地を廻って音楽を奏する人)が分布した義経の詞曲のあとを見落としてはいけない。近い世まで残って居て、終に絶えた仙台浄瑠璃、もっと陸奥の奥に、これも近い頃まで語り伝えられて絶滅した奥浄瑠璃は、義経の詞曲を土語(その地元の言葉)を以て拍子に合せて奥州一円の村から村へ、ありとある辺土の津々浦々まで語り廻って、到るところに濃密な義経伝説を醞醸して来たのである。或は津軽三厩の義経の馬を繋いだ趾であるとか、陸中閉伊(宮古市)の黒森山の判官稲荷であるとか、或は義経の祈願所、或は義経が米を借りた借用証文といふようなものは、處々方々甚しきは蝦夷松前の地に至るまで今に存するのは、その影響なのである。」
これは、実に的確な指摘と思います。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任