#88 文月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑨
2021年7月1日
◆第四期 室町時代末期「判官びいき」の成立
『義経記』の成立と義経語りの拡大により、民衆の間の義経伝説は一気に爆発しました。『義経記』前後から、日本の古典文学史上に「判官物」と呼ばれる一群の作品が生み出されました。とくに謡曲・幸若といった口承文芸的な芸能分野で、盛んに作られました。
例えば、能楽の詞章(文章)を謡った謡曲には『鞍馬天狗』(遮那王といった牛若丸に大天狗が武術を教える)『橋弁慶』『船弁慶』などがあります。
幼名を幸若丸といった桃井直詮が始めたという幸若舞の「舞の本」には『伏見常盤』『屋島軍』『高館』などがあります。
これらのすべてが『義経記』以後に成立した訳ではありませんが、『義経記』の相乗効果によってその人気が高まったといえます。
民衆の間の義経人気を示す記録があります。例えば、皇族の後崇光院(1372~1456)の日記の『看聞御記』(看聞日記)の応永27年(1420)正月の部分に伏見宮を訪れた松囃(正月の群舞)の風流に「九朗判官奥州下向の躰」という新しい出し物が登場して、民衆の大喝采を浴びた、と見えています。風流とは仮装し行列しての群舞のようなものです。
また、永享9年(1437)7月19日のくだりにも、清水寺で牛若丸と弁慶の対決を表した風流が行われ、見物客を驚かせたとあります。
「判官びいき」という心情は、このような室町時代末期の民衆の熱狂の中で成立したのでした。
◆「判官びいき」成立の経過
その経過を改めて整理しておきます。
▶ 鎌倉時代初期―文治5年(1189)閏4月30日、義経が奥州で死す。民衆は義経の武勇・仁義を称賛する一方、その没落と死に同情を寄せた。
▶ 鎌倉時代前・中期―義経は文芸の中で「復活」する。『平家物語』などの多くの語り物文芸によって、義経の話が各地に流布し定着した。義経思慕の情がしだいに醸成され始める。
▶ 室町時代中・後期―武将として強い義経よりも、零落させられた「被害者」としての弱い義経を民衆が待望し、その思いが反映した『義経記』が誕生する。また、奥州では奥浄瑠璃・御国浄瑠璃などの語り物文芸が盛んになる。『義経記』以外にも義経を素材とした文芸作品「判官物」が数多く作られ、義経人気に拍車がかかる。
▶ 室町時代末期頃―「判官びいき」という心情、言葉が成立する。
この経過が進んだ室町時代の後半は戦国時代、即ち、戦乱が続いた時代でした。「下剋上」が多発するなど、人々は波乱万丈の人生に出会い、多くの「勝者」や「敗者」が続出するのを目撃しました。そのような時代状況が敗者への哀れみ・いたわり、「判官びいき」を作り出したということもできるのではないでしょうか。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任