#89 葉月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑩
2021年8月1日
◆第五期 江戸時代―義経生存説の発生と成長
江戸時代に入ると、いよいよ義経生存説が現れ、しだいに成長してゆきます。その経過を見ます。
▶ 前・中期(およそ17世紀)
〇寛文7年(1667)に幕府巡検使として蝦夷地(現北海道)を訪れた中根宇衛門の報告書に松前藩の役人の話が載っています。
(問い)「彼ら(アイヌ民族)は何をしているのか?」(答え)「オキクルミを祀る心ばせにて」
(問い)「オキクルミとは何者か?」(答え)「判官殿のことを申しまする」
(問い)「ホウガンドノ、ハテ・・・」、
また、「蝦夷地には判官殿(義経)の屋敷跡が多数残っている、さらに奥地へ行ったという伝承もある、奥には弁慶崎なる岬がある、云云」と。
この報告書によって、幕府の一部には蝦夷地の義経伝説の存在が伝わったと思われますが一般の民衆には伝わりませんでした。
〇ところが、一般民衆の興味関心を蝦夷地に惹きつける大事件が寛文9年(1669)に勃発します。それがシャクシャインの乱です。この年の6月、蝦夷地日高のシブチャリ(現日高支庁静内郡静内町)で、首長シャクシャインが反乱をおこします。アイヌ民族間の内部抗争に端を発したのですが、そこに松前藩が介入し、大きな騒ぎになります。松前藩は鉄炮の大量投入作戦や切り崩し工作によって主導権を握り、10月にシャクシャインを騙し討ちで倒し、11年に完全に鎮圧しました。
この、アイヌ民族の一斉蜂起という事態は、当時の(内地の)人々の関心を蝦夷地へ惹きつけ、さらなる情報を求めました。そのような中で、蝦夷地に義経の伝承や足跡があるらしいという情報に接することになりました。
〇このシャクシャインの乱のさなかの寛文10年(1670)、江戸で『本朝通鑑』全二七三巻が成立します。江戸幕府の命により編纂された最も公的な歴史書で、正編四十巻を幕府お抱えの儒学者林羅山(1583~1657)が、残りを羅山の子の鵞峰(1618~80)が担当しました。同書の源義経の項に次のようにあります(大意)。
「義経は妻と幼児を刺殺した後、自刎(自害)した。享年31歳。弁慶没後、好事家が義経の容貌を描き、像を造った。黒顔に大きな眼を持ち、七つ道具を背負った像であり、邪気を払い、幼児の夜泣き止めに効果があるとした。この像は中国へ渡り鍾馗(中国で疫病を追い払う神)と並行して祀られているという。
〇俗伝(世俗間の伝承)にいう。義経は衣河では死なず、脱出して蝦夷に到り子孫を残した」
義経の自害を史実と認定した一方で、俗伝として生存説を載せています。
幕府が編纂させた最高の歴史書である『本朝通鑑』に、「俗伝」とことわってはいるものの、義経生存説が紹介されたこの事実は、義経生存説の拡大に大きく影響したものと思われます。日本の民衆は「正統」「権威あるもの」に弱かったのです。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任