#91 神無月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑫
2021年10月1日
▶蝦夷地の義経伝説
次に、何故、蝦夷地にも義経伝説が存在したかを考えてみます。
〇「御伽草紙」の「御曹子島渡」
室町時代から江戸時代初期にかけて『御伽草紙』という説話集が広く流布しました。作者や成立年代はともに不明ですが、おもに、婦女子や幼児・児童向けに編まれた通俗的短編小説集といったもので、「一寸法師」「浦島太郎」「物ぐさ太郎」といった、私たちにもなじみの深い昔話の多くは、この『御伽草紙』が出典となっています。
この『御伽草紙』の中に「御曹子島渡」という話があります。
藤原秀衡のもとで庇護されていた源氏の御曹子の義経が、蝦夷の千島の喜見城の鬼の首領であるかねひら大王が所持している「大日の法」という兵法書を奪い取る物語です。
義経は「とやせんかくはあらましと、しばし物をもの給はず、やゝありて所詮只かの島へ渡らばやと思しめして、秀衡にいとま乞ひ、旅の装束し給ひて、音に聞しわがてふ(朝)四国土佐の港へつきたまふ」(『御伽草紙』有朋堂)と、土佐の港より北方の千島を目指して出発します。そして例によって、大王の姫君とのやりとりなどを経て兵法書を手に入れて、「早かぜの法を行ひつゝ、さきへ投げ給へば、俄に大風ふき來り、四百三十余日にわたりしを、七十五日と申すには、日本土佐の港につき給ふ」と、義経は無事に帰還しています。
〇義経伝説の背景
再述になりますが、この『島渡』の話では、義経は北方へは行きますが、無事に戻ってきています。
蝦夷地への和人(本州に住んでいた日本人)の流入は室町時代に本格化していました。その移住者である知人が、『島渡』の義経は北へ、蝦夷地へ渡ったという筋立てを持ち込み、アイヌ民族へ吹き込んだということは大いにあり得ることです。
例えばこのような報告があります。元禄元年(1688)、あの徳川光圀が蝦夷地探検のため派遣した快風丸からの報告です。
「松前城下より下がったサル(沙流郡日高町など)という所には、陸行で九日程で、源義経公の上陸した地と伝えられる。伝承では、義経公は、サルを統治していたアイヌ人の大将の婿となり、ハヘに屋敷を構えた。その後、大将の宝物を盗んで本土に引き返した。アイヌの詞で義経公はウキクルミ、弁慶をシャマニウクルという、云云」
先に紹介した金田一京助氏は『御曹子島渡』も和人によって蝦夷地に伝わり、義経伝説形成に一役かったと述べています。「アイヌの方にもこの物語が入って行き、その土地でいい加減成長し、醞醸したことも十分にあり得る」(「『衣川の後』の義経」)。
さらに、次のようにも述べています。「古く浄瑠璃の伝播した御曹子島渡の説話が蝦夷地へ渡って、アイヌの口にも判官様が知られているのを、後世のひとが驚き報じて、内地の学者へ耳よりの語り草を提供したとき、茲(ここ)に義経の足跡を蝦夷地に嗅ぎ出そうと敏感になっていた耳へ、アイヌの大国主とも伝えられるオキクルミ神が、さながら、物色していた丁度そのキャラクターにふさわしく聞こえた。忽ち「蝦夷のオキクルミが即ち義経だ」ということになった云云」(「日高国義経神社」の由来)『旅と伝説』所収、昭和5年(1930)。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任