館長室から

#93 師走 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑭

2021年12月1日

○近松門左衛門の義経生存説
 有名な歌舞伎作家の近松門左衛門(1653~1724)が宝永3年(1706)に作った脚本に『源義経将棊経』があり、それは見事な義経生存説でした。
 即ち、「東かいの波路はるか行舟の〱、跡に入日のかげ残る、くものはたてのあまつそら、月又いづるそなたより、山見へそめて程もなく、ゑぞが千嶋につきにけり〱…判官弁けい岩かげよりつと出、是々嶋人少も恐るることなかれ。我こそ日本神の子孫、九郎判官義経、武蔵坊弁けいと云者也。よせ手の悪人一きも残さず討ち取って嶋人をたすけ給ふが、今よりは某を此嶋の大将にあをぐべきやと仰ける。ゑびす共、地にひれふし、此さいなんをはらひ平らげ給わること、我らが為の守り神、此嶋の大明神、いき神とあがめ奉らんと、淚をながしけいやくす。今の代までも、かの嶋の祠に、義経ほんじて義経(おきくる)大明神とくはんしやう(観請)し、二人のゑぞうをいへ〱の門の札にもかくるとかや」
 人気の浄瑠璃脚本作家であった近松が、義経蝦夷地渡海説を採用したことは、この説の浸透・拡大に大きな影響を与えたと思われます。

○義経蝦夷渡海説の到達点『義経勲功記』
 正徳2年(1712)に馬場信意 著の『義経勲功記』が刊行されます。この書は、常陸坊海尊に遭い、義経・弁慶の生存や、源平の合戦の詳細、義経一行の蝦夷地での様子などを聞いた安達東伯から、話の内容が『義経記』や『源平盛衰記』などとあまりに異なるので、それを正確に記録してほしいとの依頼を受けて作成したという体裁をとっています。
 「義経は弁慶以下を召し連れて蝦夷地に渡ったが、蝦夷地の人々は義経の武威を恐れ、シャクワンと呼んで尊敬した。それから数十年後、義経は弁慶らと共に突然、何処かに旅立たれ、消息不明となった。蝦夷の人々は義経を神として崇め、神社を建立し、人々はホウクワン(判官)と呼んでいる。きっと蝦夷地のどこかに今も生きてござろう。」
 その後「義経渡海蝦夷事」という見出しを立ててまとめています。「蝦夷地の人々は義経を神として崇め、キクルミと呼んで尊敬している。本社に祀られているのは義経、北の方、娘の三人。末社の九社には武蔵坊弁慶、鈴木三郎、亀井六郎といった者たちが祀られている。義経公が蝦夷地へ脱出したのち、忠衡殿も蝦夷地へやって来て仕えたという。義経公は蝦夷地の主に収まったばかりでなく、限りなき長寿を保って今に居られ、子孫たちは蝦夷の棟梁となられた。実に目出度いことである。」

 忠衡は秀衡の三男で、『吾妻鑑』などの史実では義経の死後、泰衡に殺害されていますが、この『義経勲功記』では義経と合流しています。
 蝦夷地は、まるで義経たちの独立国家のような記述で、義経蝦夷渡海説の頂点、到達点ともいうべきでしょう。

義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑭
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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