館長室から

#94 睦月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑮

2022年1月5日

◆第6期 江戸時代中期 義経大陸渡海説へ「発展」!
 この時期は、義経生存説がさらに「発展」して、大陸の金国へ渡ったという説にまで拡大・発展します。

○その口火を切ったのが津軽藩の歴史書の『可足記』(可足筆記)でした。成立年代は元禄年間(1688~1074)と推定。著者は、津軽藩三代藩主信義の十一男で、四代信政の弟の可足権僧正である。京都養源院の住職。この書は津軽藩の歴史を整理しなおしたもので、その中に、次のようにあります。
 「藤原泰衡に攻められて高館は落城。義経は57名の従者と共に、津軽の十三(現青森県五所川原市)へ脱出。十三を支配する秀衡の弟の秀栄を頼った。十三で態勢を立て直した義経は高館に戻って、鎌倉遠征に取りかかったが結果的に失敗。義経は蝦夷ヶ嶋に漂着したのち、韃靼の金国渡った。義経が大陸へと旅立った場所をオカムイと呼んでいる。義経の子孫は今も彼の地におり、在謹衛義澄と名乗っている」。
 韃靼とはモンゴル系の部族「タタール」のことですが、日本では中国大陸の北方を指す言葉でした。また、金国とは中国東北部の女真族の国で、1115~1234年まで存続。可足がこのような説をどこで知ったかは不明です。

○享保2年(1717)加藤謙斎 著の『鎌倉実記』が刊行され、話はさらに大きくなります。
「義経は、秀衡が、緊急の際には蝦夷地へ落ち延びるべしと話していたのを思い出し、7人の供回りだけを連れて衣川館を脱出した」と記した上で、「私曰」という書き出しで考証を加えています。
「右に記した脱出の経緯は、信用できない。しかし、義経が蝦夷地の方向に向かったことは、異国の文献によっても立証できるので確実である。」と。
 「その異国の文献とは『金史』列将伝(『金史』別本)で、次の記述がある」としています。
「範車国の大將軍源光録義鎮という者は日東の陸華仙権冠者義行(義経が改名)行は大陸に渡り、後に金国の皇帝に拝謁し、その学館に入った(中略)
 そして再び「私曰」として「(上略)金国は契丹国を滅亡させた後、宋に侵入し、宋の首都を陥落させ、徽宗皇帝の身柄を拘束して金国へ連行した。日本の崇徳天皇大治2年(1127)に当る。宋国は南の臨安に都を移して亡命王朝の南宋を建てる。それから約60年後、金国では章帝が即位する。日本の後鳥羽天皇文治4年(1188)に当っている。義経が奥州平泉で異変に接したのは文治5年のこと。蝦夷地に逃れたのはこの年である。蝦夷地と金国、即ち中国の北方とは陸続きである。金国の女真族は女直ともいう。俗説に蝦夷地の住民は義経を神の如く敬っているというが、きっと蝦夷地を征服した後、金国に至って章帝に仕えたのであろう」
 『金史』とは実在した歴史書であり、「二十四史」(中国歴代王朝の歴史を記した二十四の正式の歴史書)の一つです。しかし、『金史』別本は、この『実記』著述のために捏造された完全な偽書であったのでした。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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