#95 如月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑯
2022年2月2日
○受け入れられた『鎌倉実記』
金国も『金史』も実在したことから、『鎌倉実記』の記述は人々に受け入れられました。
例えば、享保4年(1719)に完成した仙台藩編纂の地誌『奥羽観蹟聞老志』(佐久間洞巌 著)は次のように記しています。「源義経が奥州平泉で藤原泰衡に攻められて自害したという話は『吾妻鑑』や『義経記』に記されている。しかし、近年になって疑問が提出されるようになってきた。「義経は英雄でありかれの従者もまた、一騎当千の兵ばかりである。たった一日の興亡で全滅するであろうか、怪しむべきことである」と。『残太平記』や『義経勲功記』では、義経は蝦夷地へ落ち延びたと記している。最近世に出た『鎌倉実記』では、義経は蝦夷渡海後、大陸の女真国へ至り、皇帝に仕えて栄えたと記している。『金史』を引いての論証であり信憑性は絶対である。なお、以下に『鎌倉実記』が載せるところの『金史』を記し、後人の参考にする」と。
佐久間は完全に騙されていたのでした。
○新井白石が僞書と見破る!
『金史』別本が捏造書であることを新井白石が見破りました。享保8年(1723)7月、白石は同じ友人である儒学者の安積澹白(1656~1773)への手紙で、やっとのことで実見することの出来た『鎌倉実記』の感想を次のように記しています(大意)。「ようやく疑問が氷解した。話を聞くにつけ怪しい本だと睨んでおった。台、義行、義顕という改名は、朝廷が勝手に行ったことであり、義経は全く与り知らぬこと。義経は義経なのに、大陸に渡る際に義行と改める訳がない。
それにこの『金史』別本なるものは、一目見て日本人による捏造とわかった。地名・官名が怪しいことはさておき、この幼稚な文章がすべてを物語っておる。一体、何が目的でかような詐欺行為をしたのであろう」と。
○『金史』別本を捏造したのは誰か?
*江戸時代中期の学者の篠崎東海(1687~1740)は捏造者を検討し、『和学弁』や『東海談』で「最近見た『鎌倉実記』について中根丈右衛門(1662~1733、和算家・天文家)に質したところ、捏造を認めた」としています。
*金田一京助は沢田源内(1619~88)としました。
「幕府の儒官篠崎東海が、直接に、所謂金史別本の偽作者を屈服せしめたので、その虚妄は識者の間に明かになって、この騒ぎも収まった。偽作者は他の色々の方面にもその悪戯を逞しくした近江の沢田源内というものであった」。
沢田は江戸初期に実在した史料捏造の専門家であった。(「英雄不死伝説の立場から」『成吉思汗は義経にあらず』所収)。
*岩崎克己は加藤謙斎説を唱えました。論拠の詳細は省きますが、沢田源内の没年などの検討から、加藤謙斎の可能性が高いとしました。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任