館長室から

#97 卯月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑱

2022年4月1日

◆第7期 江戸時代後期―
義経清朝開祖説へ発展
 ▶はじめに清朝について記しておきます。女直族のヌルハチが1616年に即位(太祖)について国号を後金と称し瀋陽に都した。その子大宗は36年国号を清と改め、孫の世祖の時中国へ入って北京を都とした。康熙・雍正・乾隆3帝の頃(1661~1795)全盛期。1912年の辛亥革命によって滅亡。

 ▶義経清朝開祖説は、実在する中国の図書『古今図書集成』を持ち出しての主張でした。
 『古今図書集成』一万巻とは、中国最大の類書(百科事典)で、古今の図書から抜粋して事項別に配列したもの。日本へは宝暦13年(1763)に3部のみが輸入され、うち1部は江戸城内の徳川氏の文庫である紅葉山文庫に収められました。他の2部の詳細は不明ですが、なかなか見ることのできない図書でした。

○清朝開祖説の最初は、明和6年(1769)刊行の随筆集の『韓川筆話』で、著者は戸部良熈(よしひろ)。
 「中国の『古今図書集成』の中に清朝皇帝の先祖は源義経と明確に記されている」と記しています(大意、以下同じ)。

○また、安永7年(1778)刊行の『奥細道菅菰抄』の著者である蓑笠庵梨一が「平泉」の解説文中に、「今の中華は韃靼人の治にて、世を清と云、その先は義経を祖とす。故に国号を亦清和源氏の清を採る」として、『古今図書集成にそのような記述がある』と記しています。

○さらに、天明3年(783)に森長見はその著『国学忘貝』の中で、「『古今図書集成』一万巻中に『図書輯勘130巻』がある。清国第六代皇帝の乾隆帝(在位1735~95)が自らその序文を記し、「朕」は源義経の末裔である。義経が清和源氏の流れを汲むため、清和天皇の名を採って国号を「清」としたと述べている。私は或る儒学者の書物をみてこのことを知った」と述べています。

○これらの説に対する反論が当然加えられました。まず、『古今図書集成』の序文の写しをみた伊勢貞丈(1717~84)は、その著の『安斎随筆』の中で、「巷でささやかれている『古今図書集成』云云の話は大嘘である。私は故あって序文を見る機会があったが、清朝皇帝が自らを義経子孫、清和源氏の「清」を採ったなどのことは一行足りとも書かれていなかった」と述べています。
 また、谷川士清も『倭訓栞』(1777年から刊行された国語辞典、93巻)の中で、「長崎の後藤氏(書物改役?)の話として「『古今図書集成』に義経と清朝皇帝を結び付ける話はない」ことを記しています。
 さらなる批判が続きます。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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