館長室から

#99 水無月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―⑳

2022年6月1日

▶義経伝説が伝承の範疇をこえて、「日本」を主張するきな臭い説へ変化したような例が他にもあります。
 平戸藩(現長崎県北部)の松浦靜山が文政4年(1821)に起稿した随筆集『甲子夜話』にこうあります。
 「普門律師(円通(えんつう)、天台宗僧侶、1754~1834)は話している。源義経が韃靼に渡ったのは事実である、と。
『蝦夷草紙』には、義経一行が韃靼に上陸した時は戦乱の世であったが、義経の加勢によって彼の国が勝利し、義経は彼の国の人の婿になり、子孫は繁栄して「清」と号した」とある。
 さらに『同書続編』では、「『清朝実録』は記している。清朝皇帝が「愛新覚羅」を名乗っているが、この語は現在の音では「アシハラ」となる。葦原中洲(ママ)と訓が似ているのは一体如何なることか」ともあります。
 大陸を武力で制圧する義経、日本国の名誉となるような伝承など、以前のおおらかな伝承の雰囲気とは異なるものが、これ以降の主流となります。

◆生存説には時代が反映か?
 そのような変化には、当時の社会情勢が反映しているのかもしれません。例えば、次のような変遷を辿れます。
 即ち、戦国時代末期から元禄時代(1688~1704)の時期は、いわば経済の「高度成長期」ともいうべき時代ですが、この時期に義経生存説(『本朝通鑑』『義経勲功記』など)が発生。
 元禄以降は停滞期に入り、
*享保の改革(1716~45)
*寛政の改革(1787~93)
*天保の改革(1841~43)
の結果、やや好転します。この時期に義経北方逃亡・繁栄説(『鎌倉実記』ほか)が続出しました。
 それ以降は天災や百姓一揆が続き、幕府政治の衰退期へ。享保の大飢饉(1732)、三原山噴火(1775)、桜島噴火(1779)、天明の大飢饉(1783)などが発生。さらに、天明6年(1786)以降、諸外国、とくにロシアが蝦夷地へ来航し、外圧が高まった時期。このような中で義経清朝先祖説(『国学忘貝』ほか)が現れます。恐らく、民衆の内外への「危機意識」が、日本の尊厳を高めるような話を欲したことが影響したのではないでしょうか。

◆第8期 江戸末・明治・大正 義経成吉思汗説!
いよいよ義経成吉思汗説の登場と大発展の時期です。
 ▶義経成吉思汗説はシーボルトから―この最初の提唱者はドイツ人のシーボルトでした。文政11年(1828)の、いわゆるシーボルト事件により翌年、国外追放となる。帰国後に著した(1832)大著『日本』の中で、「義経は蝦夷に逃れ、大陸へ渡り成吉思汗になった」としました。
 シーボルトにこの説を教えたのは、親交の深かったオランダ語通詞の吉雄忠次郎(1787~1833)あったとされます。ただし、吉雄が語った、「大陸へ渡ったという噂がありますよ」程度の話を、シーボルトが大げさに受け止め、提唱したのではないかともいわれています。シーボルトは安政6年(1859)に再来日し同説を改めて説明、番書調所が調査しましたが確証は得られませんでした。

義経は生きて北へ逃れた?
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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