#102 長月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―㉓
2022年9月1日
◆『成吉思汗ハ源義経也』でブーム到来!
〇大正13年(1924)の11月、義経成吉思汗説の到達点ともいうべき書が刊行され、空前の義経成吉思汗説ブームが出現しました。その著者は小谷部全一郎(1866~1941)。秋田生まれで、アメリカに渡り学問を学んだ牧師・教育者。またアイヌ虻田学園を創始したアイヌ研究家。義経成吉思汗説・日猶(日本人とユダヤ人)同祖論を展開した多才・多感な人物です。
小谷部は、江戸時代初期から『義経再興記』までの義経生存説を肯定し、問題によっては独自の解釈を加え、さらにみずからの大陸での見聞を証拠として挙げ、結論としてこう述べています。
「成吉思汗が義経の後身でないとする者があれば、それは蛙はおたまじゃくしの後身ではないと主張するようなものである。また、成吉思汗を生粋の蒙古人とすることは、蜥蜴を龍なりとするようなものである。義経の衣川自害を主張する我が国歴史家の見解は、影を以て実体なりと強弁し、或いは形が少しばかり似ているからとして、鰌を指して鯨であるというのと同じことである」と断定しています。
〇学会よりの猛批判!
ここまであからさまに言われた学者たちから、当然、小谷部の説に対する猛烈な批判が加えられました。
大正14年(1925)国史講習会は雑誌の『中央史壇』に「成吉思汗は義経にあらず」という臨時増刊号を発行しました。そこには、国史学・東洋史学・考古学・民俗学・国文学・国語学・言語学の第一級の研究者が結集し、様々な角度から批判を展開しました。
学者名を挙げますと、大森金五郎(国史)・金田一京助(言語)・箭内亘(東洋史)・沼田頼輔(紋章)・臨風生(笹川臨風、国史)・中村久四郎(東洋史)・藤村作(国文)・中島利一郎(言語)・藤澤衛彦(民俗)・三宅雪嶺(哲学)・梅沢和軒(国文・美術)・高桑駒吉(東洋史)・関壮二(歴史)・鳥居龍蔵(考古学)・志筑祥(美術)です。
〇様々な批判の中から、金田一京助による冷静で節度のある批判を紹介します。
即ち、金田一は「英雄不死伝説の見地から」という批判論文の中で、「歴史論文」を厳正な史科批判の上に立って客観的に論述されるもの、「伝説」を史科批判も客観的判断もなしに信じられる「信仰」と同義、と峻別したうえで、小谷部の論の展開の仕方は、「史論としては、資料に臨む態度が余りに正直であるばかりでなく、まず結論を信じて、これに合う都合の良い事実を都合の良いように解釈して採用し、もし都合の悪いような事実などは、始めから棄てて省みられないのではないかと疑われる(中略)
史科の鋭敏な批判や吟味を以て論述に客観性を与うべき企画も態度も見出せない」と批判し、『成吉思汗ハ源義経也』は「小谷部氏の「義経信仰」の「告白」に外ならない。つまり、史論というよりは寧ろ、英雄不死伝説の範疇に入る古来の義経伝説の一部を構成する最も典型的、最も入念な文献として興味あるものである。」と評しています。
このような猛批判のもかかわらず、この書は爆発的に売れ行きを示したということです。大正13年11月10日初版発行、12日に再販が発行、そして12月5日には六版に到ったといいます。『義経再興記』刊行以来、義経成吉思汗説に対する興味関心が高まっていたこと、当時の日本の領土拡張政策・意識が大きく影響したといわれています。江戸時代以前のおおらかで、のんびりした義経伝説とは大きく異なる性格になっています。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任