#103 神無月 義経は生きて北へ逃れた?―蝦夷地から成吉思汗まで―㉔
2022年10月1日
◆さいごに
義経伝説の変遷を時系列的に整理しておきます。
▶鎌倉時代初期―文治5年(1189)閏4月30日、源義経は平泉にて死す。民衆はその武勇、仁義を称賛する一方、その没落と死に同情を寄せた。
▶鎌倉時代前・中期―義経が文芸作品の中で「復活」。『平家物語』を象徴とする語り物文芸によって、義経像が各地に流布・定着。義経への「思慕の情」が次第に醸成され始める。
▶室町時代中・後期―武将としての「強い義経像」よりも、零落させられた被害者としての「弱い義経」を民衆が望み、『義経記』が成立。奥州では奥浄瑠璃・仙台浄瑠璃などで義経が語られた。また、『義経記』以外にも義経を扱った「判官もの」が多数つくられる。
▶室町時代末期―「判官びいき」という言葉が成立。
江戸時代に入りますと、義経生存説、蝦夷渡海説、大陸渡海説が専門の作家によって創作され始めました。従って、室町時代までの、民衆の心根が反映した「伝承」とは、大きく性格が異なるものになってゆきました。
▶江戸時代前期―『本朝通鑑』『義経勲功記』などで、義経は蝦夷へ渡海し、蝦夷地の支配者となる、というように「義経一行の威勢がよくなる」時期。
▶江戸時代中・後期―『鎌倉実記』など、義経は大陸へ渡り、金国などに到ったという。実在し『金史』別本というものを捏(でっ)ち上げてまでしての大陸渡海説が出現。
▶明治~大正時代―『義経再興記』や『成吉思汗は源義経也』などの書で、義経と成吉思汗は同一人物という説が唱えられ、あたかも当時本格化していた日本の領土拡大政策とも相まって、人々から大きく支持されることになった。
▶昭和30年代以降―昭和33年(1958)、作家高木彬光が雑誌『宝石』に「成吉思汗の秘密」を連載します。これは天才的法医学者の神津恭介が義経伝説に挑むという筋立てです。
また、岩手の地にあって、高校で教鞭をとる傍ら、奥羽史談会や岩手史談会員として義経生存説の検証に努めていた佐々木勝三氏は、昭和33年『義経は生きていた』を東北社より出版。以後、昭和61年(1986)に91歳で亡くなるまでに、『源義経蝦夷亡命追跡の記』『成吉思汗は源義経』などの著作を発表しています。
このほか、既に紹介した金野靜一氏(民族学者、岩手県立博物館館長などを歴任)著の『義経北行 (上)(下)』ツーワンライフ社発行は、東北地方から北海道までの義経一行の立ち寄り先を詳細に記述しています。
以上、義経伝説がどのように成立し、変化・発展してきたか辿ってみました。
その結果、義経伝説にも時代による特徴があり、必ずしも一つの性格ではなかったことが見えてきました。
また、『義経びいき』の感情にも、物事を突き詰めないで、何となく情緒的に流してしまおうという問題点があるのでないかとの指摘があることも紹介しました。
さらに、岩手が生んだ金田一京助氏と高橋富雄氏の両先人学者が、義経伝説に対して適切な論を述べておられたことも紹介しました。
それらも頭の片隅に置いたうえで、これからも義経伝説と向き合っていきたいものです。その場合、高橋富雄氏が述べている、「義経生存説は伝承であるが、何故そのような伝承が発生したのかは、学問的な研究の対象になる」という態度が基本になるでしょう。
ご愛読を感謝し、筆をおきます。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任