#106 睦月 「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―③
2023年1月2日
◆陶磁器などの焼き物―奥州藤原氏は焼き物を好み、12世紀当時の日本において入手可能なあらゆる焼き物、すなわち陶磁器類を購入していました。おそらく相当高価であったであろう陶磁器を、惜しげもなく様々な用途に使用していました。
◇飲食器や容器―もっとも本来的な用途である飲食器・供膳器・容器・貯蔵用器としての使用です。これらの日常生活用器は、発掘調査では破損品や細片の形で出土します。
◇儀式用器・祭祀用器―例えば武士の「主従かため」の儀式など、当時の様々な儀式の際に、高坏や水注、梅瓶などが用いられました。
次に、当時は末法思想に伴う経塚の造営が盛んでしたが、奥州藤原氏は塚に納める経の巻物の容器にも使用しました。
また、当時は様々な呪いも行われていましたが、その際の道具、すなわち祭祀具としても使用されました。例えば地鎮祭の穴から陶器が、さらに井戸鎮めを行った井戸の底から白磁の壷が出土するのはその痕跡です。このような儀式に関わる陶磁器は壊れないで出土することが多いのです。
◆陶磁器の産地―奥州藤原氏が購入した陶磁器には様々なものがあります。
◇中国産陶磁器―中国(宋)からの輸入品です。中国の寧波の港を出港し日本の博多の港へ運ばれました。ちなみに、12世紀の陶磁器を大量に出土する地は京都、博多。そして平泉の3ヶ所だけです。
陶器には緑釉、褐釉などをかけた壷などがあります。
磁器には白磁・青磁・青白磁の壷・四耳壺・水注・梅瓶・皿・碗ほかがあります。奥州藤原氏はとりわけ白磁を好み、その中でも四耳壺・水注・梅瓶のセットを好んだことが判明しています。
◇国産の陶器―当時の日本では、まだ陶器しか生産できませんでしたが、太平洋側の三河国(現愛知県)の猿投焼き・常滑焼き・渥美焼き、日本海側の能登国(現石川県)の珠洲焼きが二大産地でした。
奥州藤原氏はどれも購入していますが、もっとも多いのが常滑・渥美焼きでした。
◆地元で陶器を焼く―奥州藤原氏は、他所で生産された陶磁器類を購入するだけでなく、陶器を奥羽の地元でも生産させていました。
◇渥美焼きそっくりの陶器―北上川河口の宮城県石巻市の水沼窯跡と平泉町花立窯跡で渥美焼きそっくりの陶器が生産されていることが判明しています。中でも水沼からは、平泉町の金鶏山経塚出土の袈裟襷文壺に酷似した壺、鉢・甕も出土し、しかも窯の操業期間が12世紀に限定されることから、奥州藤原氏との深い関りを示唆しています。
◇珠洲焼きそっくりの陶器―米代川沿いの秋田県能代市二ツ井町のエヒバチ長根窯跡で珠洲焼きに酷似した陶器の甕・壷・鉢・片口鉢・皿ほかが生産され、やはり12世紀の操業が確認されました。ここで焼かれた陶器が北上市や奥州市など岩手県内各地の経塚からも出土していることが判明しています。
◇儀式用の「かわらけ」―素焼きの小皿や盃のことで、平泉遺跡群のいたるところから出土する「もっとも平泉的な焼き物」です。儀式に伴う宴の席で使用された土器です。
この窯が、奥州藤原氏時代の河港と推定されている奥州市前沢の白鳥館遺跡(ユネスコ世界文化遺産候補地)の平坦部や平泉町内に確認されています。
◇焼き物に見られるこのような事実は、奥州藤原氏、はまるで奥羽の地に新しい「地場産業を興そうとしていたかのようです。
このように、奥州藤原氏は奥羽のことを本当に深く思い、本格的に統治しようとしていたのでした。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任