#107 如月 「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―④
2023年2月1日
次に、「平泉文化」が決して京都の模倣文化ではなかったのでした。
すなわち、奥州藤原氏は自らの「独自性」を主張し、それを具体的表現していたのでした。
◆経塚の「独自性」―12世紀は末法思想の流行のもと、経塚の造営が盛んで、奥州藤原氏も当然多くの経塚を築きました。
日本では1052年(永承7)から末世に入るとされ、釈迦入滅の56億7千万年後に弥勒菩薩が下生し衆生を済度してくれる時までお経を保存しておくためとして経塚が築かれました。1007年(寛弘4)に藤原道長が金峯山へ経を埋納したことに始まるとされています。
◇経塚の造営方法―造営には一定の方式・約束事があります。
まず、複数の経巻(お経の巻物)を専用の容器である経筒に容れます。経筒には青銅製や陶器製があり、その表面に文字で埋経の発願者、僧侶、年月日などが記されることが多く、塚の歴史的背景をしる良い資料になります。
次にこの経筒を、もう一回り大きな容器である経筒外容器へ容れます。経巻を二重に保護し、より長く安全に保管したいという願いからでしょう。
この経筒外容器を、塚の中心部の地面を掘って作った1㍍四方前後の小さな室・空間、すなわち主体部の中に納め置きます。
次に主体部の上に大きな平石などで蓋をし、その上に土や砂利を積み上げ塚とします。積み上げるための土を掘った部分は塚の周囲に溝として残ります。これが周溝と呼ばれます。
◇経筒を省略―岩手県内には奥州藤原氏時代の経塚が30ヶ所以上確認されています。
それらを見ますと、青銅製経筒が金鶏山経塚から、青銅製と陶器製が花巻市東和町三熊野神社経塚から出土しており、奥州藤原氏は正式の納経方式を知っていたことがわかります。
しかし、それ以外の多くの例では経筒を使用せず、経巻を直接陶磁器の壷や甕に入れ、主体部へ納置しています。経筒を省略し、経巻を経筒外容器的な陶磁器に入れたかのようです。経筒省略の理由は未詳ですが、当時高価であったと思われる陶磁器が持っている「霊力」に縋ったのでしょうか。これが大きな特徴です。
なお、経筒が省略されたことから、埋経の背景などがわからない例が多くなっています。
◇「かわらけ」経を副葬―奥州市前沢古城の、国道4号を眼下に望む段丘崖の縁に築かれた寺ノ上経塚に極めて珍しい埋経方法の経塚が確認されています。
ここの主体部には、12世紀後半に作られた高さ46㌢を越える大型の渥美焼きの壷(埋経容器)が納められていました。そしてその壺の周囲には法華経の経文が墨で書かれた大量の「かわらけ」が充填するかのように詰められていました。
この法華経が墨書された「かわらけ」は「かわらけ経」と仮称されていますが、このような事例は全国的にも見られず、まさに奥州藤原氏の独自性そのものといえます。
「かわらけ経」を副葬することで、お経の保存をより確実にしたいという強い願いが込められているかのようです。
◇これらの他に、三代秀衡が宇治平等院鳳凰堂を真似て建設したと『吾妻鑑』に記してある無量光院は、柱間の間隔は鳳凰堂より長く「規模を拡大して真似た」ことが確認されています。
このように奥州藤原氏は「京都文化に学んでいますが、それに自らの特徴・主張を加えた」ことは確実です。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任