館長室から

#108 弥生 「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―⑤

2023年3月1日

◆白磁を加工しようとした?
 奥州藤原氏の政庁平泉舘の跡である柳之御所遺跡の井戸跡の1つから、興味深い2つの資料が出土しました。堆積状況から、どちらも12世紀の末に何らかの理由で井戸に棄てられたものと判定されました。「滅亡」する直前か?
◇銅印章―1つは四角形の印面と把手をもつ銅製の印章です。縦横4.7㌢の印面に「磐前村印」と楷書で鋳出してあります。彫の凹部に朱が付着しており、朱印として用いられたことは確実。古代の地方行政にかかわる印には国印・郡印・郷印などがありましたが、出土した銅印のサイズは郡印のそれに概ね近い数字です。
 文字の読みは「イワサキムラ」「イワマエムラ」「イワガサキムラ」などの可能性があります。
 平泉の周辺には、旧和賀町岩崎がありますし、中尊寺文書に「伊沢郡石崎村」が見えます。また柳之御所遺跡出土の「人々供絹日記」折敷には「石埼次郎」が見えます。
 平泉より離れた地域では福島県に岩崎郡があり、宮城県には旧栗駒町に岩ケ崎があります。
 現段階では読み・所在地ともに特定されていません。
 12世紀はそれまでの郷が村へ移行する時期に当たっており、その村には首人(おびと)と呼ばれる有力者がおりましたので、奥州藤原氏は首人へこのような村印を下賜して村の統治に当らせていた可能性があります。
◇白磁四耳壺に施文か?
 もうひとつは、銅印と同じ層から、割れた状態で出土した白磁四耳壺です。復元すると完形にとなり、器高26.7、銅径18.0㌢、中国福建省付近の製造で、12世紀第3四半期に輸入されたものと推定。
 注目されたのは、この四耳壺は「器表面全面と底面、口縁部内面の頸部付近まで密着した状態で黒漆の沁み込んだ麻布で覆われていた」ことです。
 中国産の磁器は、その器形のみならず、器表面にかけられた釉薬を愛でるのが普通ですが、奥州藤原氏はその美しい器表面を隠しているのです。
 白磁の器表面を布で覆い黒漆を塗って何をしようとしてか?可能性は2つ指摘されています。
 ひとつは、黒漆を地として、その上に朱漆で文様を描く蒔絵の手法で施文しようとした可能性です。政庁平泉舘の内部から漆器製造の道具が出土していますのでその可能性はあると思われます。
 他の一つは、夜光貝などの貝殻を文様に切り抜き、それを黒漆の面に嵌め込む象眼細工で施文しようとした可能性です。金色堂柱などの絢爛豪華な象眼細工をみれば、これも可能性があります。
 長い歴史を誇る日本の漆器文化の中に、籠などの表面に漆をかけた籃胎漆器(らんたい・しっき)というものがあります。これはすでに縄文時代から存在した技術ですが、奥州藤原氏は籠を磁器に置き換えて磁胎漆器(じたい・しっき)とでもいうべきものを制作しようとしていたのでしょうか。これも独自性の発露と思われます。
◆「平泉文化」の新評価
 以上、最近の考古学的研究の一部を紹介しました。すでに述べましたが、近年、「平泉文化」の総合的研究がすすみ、その内容の細部までが見えてきました。その結果、これまで以上に大きな視野に立った評価が必要になってきています。
 奥州藤原氏は、政治・経済・文化のすべての分野を視野に入れた高度な政策を展開していたと思われます。
 これまでは、奥州藤原氏は、古代の末期に、公家政権の最後に記述されることが一般的でしたが、今後は、「中世の幕を切って落とした新しい存在」とみなされてもよいのではないでしょうか。

「平泉文化」の新しいイメージ―考古学的研究の成果―
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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