#109 卯月 「奥の細道」の旅―最終目的は平泉か―①
2023年4月1日
◆平泉関係文献資料の収集
平泉文化を、主に考古学的方法で学んできた私ですが、最近は、平泉文化に関わる文献資料の収集にも、ささやかながら取り組んでいます。
このことは、故工藤雅樹先生が「岩手県は、平泉文化の研究・顕彰と同時に、安倍氏、清原氏、奥州藤原氏、さらには源義経に関わる文献資料を網羅的に収集データベース化し、活用に供しうる体制をつくる必要がある」と早くから訴えてきたことに触発されたものです。
その中で松尾芭蕉の『奥の細道』の旅に興味を惹かれています。それは、「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の降のこしてや光堂」の名句を残したあの旅が、奥州藤原氏滅亡から、正確に500年後の年に行われたことからです。
また、滅亡の翌年は西行法師が亡くなった年でありました。
◆文治5年(1189)
兄頼朝の圧迫を逃れた義経は文治三年(1187)頃に平泉へ入りました。しかし十月廿九日に秀衡が死去。秀衡は死の直前に、国衡と泰衡の兄弟融和のため、自分の妻を長男国衡と結婚させること、義経を主君として両人とも義経に従うように遺言したといいます(『玉葉』『吾妻鏡』)。
しかし、頼朝の圧力に屈した泰衡は文治五年閏四月卅日、義経を衣川館(ころもがわのたち)に襲撃、義経は奮戦しますが遂に破れ、妻子を殺した後、自害します。衣川館は秀衡の舅の藤原基成の館でもありました。所在地未確定です忠実なが旧胆沢郡衣川村内か。
『吾妻鏡』は「今日、陸奥国に於いて、泰衡源予州を襲ふ。是れ且つは勅定に任せ、且つは二品の仰せに依るなり。予州は民部小輔基成朝臣の衣河の館に在り。泰衡は兵数百騎を從え、其の所へ馳せ至り合戦す。予州の家人等相ひ防ぐと雖も、悉く以て敗積す。予州は持仏堂に入り、先ず妻 廿二歳 子 女子四歳を害し、次で自殺すと云云」と記しています。
◆文治6年(1190)
西行は、俗名を佐藤義清(のりきよ)、法名円位(えんい)。鳥羽上皇に仕えた北面の武士。23歳の時、無常を感じて出家。晩年は陸奥・四国へ旅した。述懐歌に優れ、『新古今集』には94首の最多歌数採録。家集に『山家集(さんかしゅう)』。
文治六年二月十六日、河内(大阪府)の弘川寺(ひろかわでら)で死去。生前に自身が詠んだ「願わくば花の下にて春死なむそのきさらぎの望月のころ」の歌にちなんで、前日の「涅槃の日(陰暦二月十五日)」を忌日(円位忌)とする。
◆元禄2年(1689)
松尾芭蕉は伊賀上野(いが・うえの、三重県)の人、俳諧を志し、京都から江戸深川の芭蕉庵に移り、蕉風(しょうふん)の俳諧を創始。各地を旅し多くの名句と紀行文を残した。『野ざらし紀行』『笈の小文』『更科紀行』ほか。1644~1694年。
『奥の細道』は、元禄二年三月廿七日、門人の河合曽良(かわい・そら)を伴って江戸を立ち、東北・北陸を巡遊して、九月六日、美濃大垣(おおがき、岐阜県)に至る迄の5ヶ月にわたる旅の紀行文。元禄七年(1694)頃成立、1702年刊行。
曽良の「随行日記」との対照によって明らかなように、忠実な旅の記録ではなく、様々な虚構を交えた文学作品。日本の紀行文学の傑作として、後世にも大きな影響を与えた(『角川新版日本史事典』)。
以上、奥州藤原氏滅亡・源義経自害の年から500年後の年、西行法師の五百回忌の年に『奥の細道』の旅が行われていたことは明らかです。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任