館長室から

#112 文月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―④

2023年7月28日

これから、芭蕉が『おくのほそ道』の中に記述した義経主従への熱い思いを順に確かめてゆきましょう。この「日記」の構成が、義経主従の鎮魂でもあったことが見えてきます。

◆兼房(かねふさ)を二ヵ所に
次の二ヵ所に兼房の名前が出てきます。まず、陸奥国への入口の白川の関には「卯の花をかざしに関の晴着かな 曽良」とあります。陸奥国へ入るにあたって、『袋草子』に見える竹田大夫の故事にならい衣服を改めたかったが、何もないので、卯の花をかざしにして通ったとの意味ですが、注目すべきは「卯の花」の白い色です。この白は明らかに白髪を連想していて、義経主従の中で白髪と結びついているのは兼房です。
もう一ヶ所は平泉の場面で、「卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良」と、こちらは卯の花の白と兼房をはっきりと結び付けています。
芭蕉は兼房に対する自らの熱い思いを、曽良の句によって表現したと思われます。

◆兼房とは
兼房とは十郎権頭兼房(じゅうろう・ごんのかみ・かねふさ)のことで、『義経記』の最終章の「衣川合戦」に出てくる人物。義経の最期に立ち会い、義経の死を見届けた後、獅子奮迅の戦いをして討死する。
そもそも兼房とは、義経の北の方(正妻)である久我(こが)大臣の姫君の養育係でした。北の方の守り役である兼房は、既に「白髪」であったが、当然のことながら姫君・義経と行動を共にし、平泉へ下向。
義経の衣川の館が攻められた時、兼房は喜三太(きさんた)とともに屋根の上から寄せ手に矢を射かける。屋根から飛び降りた喜三太は首を射貫かれて討死、兼房は義経のもとに駆け付け、自害に立ち会う。
義経は北の方を死なせてほしいと兼房に頼み、北の方もその手助けを頼む。兼房はやむなく腰の刀を抜き、北の方の肩を押さえ、右の脇から刀を刺し透す。さらに若君や生後七日の姫君をも刺し殺す。まだ息の残っていた義経は北の方や若君たちの死を確かめて、傍に横たわると北の方や若君たちを手で抱きかかえた義経は、兼房に「火をかけよ」と命令してこと切れる。
兼房は走り回って火をかけ、向かってくる寄せ手の大将長崎太郎を討ち取り、その弟の長崎次郎を脇に抱え込み、「死出の供に」と炎の中へ飛び込む。「兼房思えば恐ろしや、偏(ひとえ)に鬼神の振舞いなり」の働きでありました。

◆含状(ふくみじょう)
兼房は、自害した主君義経の首を自らかっさばいた腹の中へ納めて討死。幸若舞の「含状」にその後のことが描かれています。頼朝は兼房の腹の中から出てきた義経の首を実検させると、その口の中に巻物が残っていた。その主旨は、
「(自分は義経であるが)讒言によって莫太の勲功も黙せられ、わずかの梶原に真の兄弟の思いを変えらるる。うっぷん深うして嘆き切なり。願わくば梶原父子(景時・景季)が首を切って義経に手向け賜わるならば、未来ようやく恨み有るべからず。万歳多し」とあった。

名将である義経のこのような悲運と無念、及び、その最期を見届け、介錯せざるを得なかった兼房の無念、などは、芭蕉にとっても同感の念、泪をさそうものであったでしょう。義経の悲運を体現した人物として、芭蕉・曽良は兼房を認識していたと思われます。
ちなみに、義経の最期の地は、公式記録というべき『吾妻鏡』に記された「衣川館」から、平泉の「高館」の方が一般的になっていますが、その端緒は『義経記』であったようです。
「衣川館」は恐らく旧胆沢郡衣川村の下衣川地区のどこか、「高館」は義経堂が鎮座する現平泉町の高館周辺なのでしょう。

館長コラム
相原康二

相原康二(あいはらこうじ)

1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。

岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)

岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)

2024年えさし郷土文化館館長退任

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