#113 葉月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑤
2023年8月16日
◆佐藤庄司(さとう・しょうじ)
白川の関を越えた芭蕉は、須賀川―あさか山―しのぶの里を経て佐藤庄司が旧跡に着きます。現在の福島市北部の飯坂温泉付近です。
本文中には、「佐藤庄司が旧館は、左の山際一里半許に有。飯塚の里鯖野と聞いて尋〱行に、丸山と云に尋あたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀れなり。女なれどもかくひ〲しき名の世に聞えつる物かなと袂をぬらしぬ、云々」とあり、芭蕉自身が涙をながしていたことがわかります。石田洵氏によれば、芭蕉自身の落涙は、ここと平泉高館の2ヶ所だけの由です。
佐藤庄司とは佐藤元治(基治、もとはる)のことで、信夫郡・伊達郡を納めていた武士。秀衡の家臣。継信・忠信の兄弟はその3男と4男です。
◆佐藤継信・忠信(つぐのぶ・ただのぶ)
兄弟ともに義経のために死力を尽して戦い、そして死んでいった忠義の人として『義経記』や幸若舞ほかの多くの芸能に出てきます。
平泉の秀衡のもとにいた義経が、兄頼朝の挙兵を聞き、その応援のために馳せ参じようとした際に、秀衡の命によって兄弟で義経に随行することになり、以後、義経の腹心の部下になる。
兄の継信は、元暦(げんりゃく)二年(1185)の八嶋(屋島、やしま、香川県)の合戦で平家方の能登守教経(のとのかみ・のりつね、教盛の子)の強弓から義経をかばって討死。
弟の忠信は、義経が兄頼朝に追われるようになってからもその許を離れず、吉野山(よしのやま、奈良県中部)では、義経を逃がした後、後詰(ごづめ、後方に控えている軍勢)となって川連法眼(かわつら・ほうげん)や横川の覚範(よかわのかくはん)らの僧兵に対して巧妙なゲリラ戦を展開。その後、義経とは別ルートで京都に潜入するが、堀川御所(ほりかわ・ごしょ、京都二条堀川の義経の館)で包囲され、遂に自刃した。
◆兄弟の嫁(妻)たち
本文中の「かたはらの古寺」は佐藤一族の菩提寺の瑠璃光山吉祥院医王寺(るりこうさん・きっしょういん・いおうじ)で、そこに「二人の嫁がしるし」、すなわち兄弟の妻たちの墓標がある。
『奥細道管菰抄』には「此寺は、甲冑堂(かっちゅうどう)といふ。佐藤次信、忠信ノ二人が嫁の、甲冑を著たる木像あり。兄弟戦死の後、二人の婦(ヨメ)、甲冑を著し、軍戦の粧ひをなして、遺れる老母を慰めしと言伝ふ」とあります。
二人の嫁の武者姿のことは幸若舞の「八島」などに出てきます。「兄弟の父庄司が病の床に臥し、我が子に会いたいと思いながら末期を迎える。何とか舅に兄弟の姿を見せてあげたいと思った二人の嫁は、兄弟の鎧を身につけて門に立ち、兄弟が帰って来たかのような姿を末期の舅に見せる。それを目にした舅は、夢ではなく現実に我が子の姿を見ることができたと、嬉しさの中に息を引取る。
この時、継信の妻が着たのが小桜縅(こざくらおどし)の鎧で、忠信の妻のそれが卯花縅(うのはなおどし)の鎧であり、どちらも父の庄司が兄弟に贈ろうと用意していたものであった。」
幸若舞「八島」には、八島合戦における兄弟の詳しい行動、働きも描かれています。
芭蕉など、多くの人々の心を打ったのは、子を思う親の情愛であったのです。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任