#115 神無月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑦
2023年10月1日
◆和泉三郎の宝燈
芭蕉は秀衡の三男、和泉三郎国衡(いずみさぶろう・くにひら)について(塩竈)の部分で触れています。
「早朝、塩がまの明神に詣。國守再興せられて、宮柱ふとしく、彩椽きらびやかに、石の階九仞に重り、朝日あけの玉がきをかゝやかす。かゝる道の果、塵土の境まで、神霊あらたにましますこそ、吾国の風俗なれと、いと貴けれ。神前に古き宝燈有。かねの戸びらのに、「文治三年和泉三郎寄進」と有。五百年来の俤、今目の前にうかびて、そゞろに珍し。渠(かれ)は勇義忠孝の士也。佳名今に至りて、したはずといふ事なし。誠「人能道を勤、義を守べし。名もまた是にしたがふ」と云り。云云」
その名声が今に伝わるだけの行動があったと、和泉三郎を讃えています。その思いは、(平泉)の部分に、芭蕉は「衣川は和泉が城をめぐりて」と記述しているのに対して、『曽良旅日記』には「泉城」と記している違いにも表れています。
和泉三郎のことは、能「錦戸」、幸若舞の「和泉が城」などで広く知られていますが、芭蕉はあえて「和泉が城」と表記しています。
◆秀衡の遺言
平泉と鎌倉の関係が緊迫してきた文治三年(1187)十月廿九日、秀衡が死去。秀衡は死の直前、兄ではあるが他腹の国衡(くにひら)、嫡子の泰衡(やすひら)らの兄弟融和のため自分の妻を長男国衡と結婚させること、各自は異心のないことを祭文に書いて誓わせ、義経にも祭文を書かせ、義経を主君として両名は義経に従うよう遺言したといいます。(『玉葉(ぎょくよう)』文治四年正月九日条、『吾妻鏡』文治三年十月廿九日条)。
◆国衡・泰衡、父の遺言に背く
秀衡の死後、頼朝から味方するように迫られた錦戸太郎国衡は、弟の和泉三郎忠衡にも同意するようすすめますが、忠衡は拒否。やがて国衡と泰衡の軍勢が押し寄せ、和泉三郎は奮戦の末自害する。
◆和泉三郎の妻
既述の「錦戸」「和泉が城」には和泉三郎の妻のことが出ています。すなわち、佐藤庄司の娘で継信・忠信の妹にあたり、二人の兄たちと同じように、義経のために命を尽くす夫を、心おきなく戦わせようとします。この妻は、「錦戸」では合戦の前に自害しますが、「和泉が城」では夫とともに決戦に挑みます。
「夫の忠衡から兄と対決する決意を聞いた妻は、「女の身ではあっても、義経様のもとに馳せ参じ、主君のお供をします」と決意を語ります。死を覚悟した妻は、我が子を刺し殺し、自らも鎧に身を固め、「忠衡櫓にあがれば、女房木戸をかため」と、ともに討手に立ち向かう。」
この妻は、屋島合戦で義経の身をかばって能登守教経の矢を受けて死んでいった佐藤継信の妹であり、その「心の剛なるも道理」と語られる。
芭蕉が「勇義の士」と評した「和泉三郎」の背後に、自身も「勇義」を持ち、夫の「勇義」を支えて妻がいたのです。和泉三郎忠衡の妻は、佐藤兄弟の「二人の嫁」と同じように、物語を支えるけなげな女性で、物語を知っていれば、芭蕉の心を動かす存在であったのでしょう。
奥州藤原氏初代清衡の母が出た安倍氏の物語『陸奥話記(むつわき)』に、落城直前の厨川柵(くりやがわのさく、現盛岡市)において、「但し柵の破れる時、(安倍)則任(のりとう)の妻は独り三歳の男を抱き夫に語って言う、「君、将に死せんとす。妾(わたし)独り生くることを得ず。請う、君の前に先ず死なん」。則ち、児を抱きながら自ら深淵に投じて死す云云」とある話に共通する「烈女」の物語で、芭蕉の心を大きく揺さぶったのでしょう。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任