#118 睦月 「奥の細道」の旅―最終目的地は平泉か―⑩
2024年1月5日
◆芭蕉と義経がたどったルート
最後に、『義経記』と『おくのほそ道』に記された旅路を見ておきます。工藤雅樹氏によりますと、両者はほぼ同じ経路を辿っていたということです(工藤雅樹『平泉への道』)。
◆義経の都落ちの経路
『義経記』巻六では、京都に潜伏していた義経は、身に危険が迫ったことを感じて、平泉行きを決意することが語られます。
続く「判官北国落の事」では、一行は北国の道をとり、山伏に身をやつして落ち延びることとし、北の方を稚児姿に変えて同行させ、その守り役の十郎権頭兼房がお供することになるなど、都落ちの様子が記されます。
一行のその先の経路の概略は「京都―大津(滋賀県)―愛発山(あらちやま、福井県敦賀市)―三の口の関(みつのくち、道口、福井県敦賀市)―平泉寺(へいせんじ、福井県勝山市)―富樫の館(石川県野々市市)―如意の渡(富山県高岡市)―直江の津(新潟県直江津市)―念珠ヶ関(ねずがせき、山形県鶴岡市)―亀割山(かめわりやま、山形県最上町)―平泉(岩手県西磐井郡)」です。「判官平泉へ御着の事」では、無事に平泉に到着した一行は、秀衡に鄭重にもてなされるのです。
ちなみに、巻八では、秀衡の死から泰衡が義経を攻めるまでが手短に語られ、「判官御自害の事」「兼房が最期の事」と続きます。
◆義経の初度の平泉入りの経路
『義経記』によりますと、義経の上野国の板鼻(現群馬県安中市)以北のルートは、「下野や室の八島をよそに見て、宇都宮の大明神を伏し拝み参らせ、白河の関山打ち越えて、行方(なめかた)の原にさしかかり、実方の中将、(中略)安達の延べを見て過ぎ、安積の沼の菖蒲草、影さへ見ゆる浅香山、着つつ馴れにし信夫の里の摺衣、なんど申しける名所名所を見給ひて、伊達の郡阿津賀志の中山越え給ひて、(中略)武隈の松、阿武隈川を過ぎて、宮城野の原、榴の岡を眺めて、千賀の塩竈へ詣で給ふ。あたかの松、籬が島を見て、見仏上人の旧蹟松島を拝ませ給ひて、紫の大明神の御前にて祈誓申させ給ひて、姉葉の松を見て、栗原寺にも着き給ふ。吉次栗原寺の別当の坊に入れ参らせて、御使ひに吉次は平泉へぞ下りける」(日本古典文学全集『義経記』)。
◆芭蕉の往路
この区間で『おくのほそ道』で立ち寄ったことがわかるのは、「室の八島(栃木県栃木市)、安積のかげ沼、安積山、しのぶもぢ摺(以上は福島県)、武隈の松、宮城野、つつじが岡、塩竈、見仏上人の松島(以上は宮城県)、平泉」です。
『義経記』に見える義経の経路と見事に重複しています。
◆芭蕉の帰路
平泉を発った芭蕉の旅は、そのまま往路を江戸へと戻るのではなく、大きく北陸路を経由します。その道筋は、「尿前の関、尾花沢に出て、立石寺に立ち寄った後、最上川筋を通って羽黒山に登り、酒田・象潟から鼠ヶ関を越えて越後路へ入っている。そして、親知らず、黒部、金沢、山中温泉から加賀の大聖寺を経て永平寺を訪ね、福井・敦賀から、一旦は近江へ越えた後、美濃に入り、ここで『おくのほそ道』の文は閉じられている。(中略)
全体として、『おくのほそ道』の旅は、『義経記』にある義経の道筋が常に想起されたものになっていることに疑いはなく、『義経記』なくしては『おくのほそ道』はなかったといえる」とあります。
既述したように、陸奥への入口である白河の関で兼房への句を挙げていること、義経の忠臣として知られる佐藤継信・忠信兄弟ゆかりの飯坂へ立ち寄っていること、塩釜神社で「和泉三郎寄進」の宝燈を紹介していること、そして高館における名文等々は、この旅の目的がどこにあったかを如実に示しています。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任