#120 弥生 菅江真澄 平泉への道
2024年3月8日
◆真澄の見た平泉②
▶天明六年三月八日(『霞む駒形続』)現宮城県の栗原地方の旅から北上して平泉へ入り、善阿弥(ぜんあみ)の肝入千葉家の案内で、平泉の各所を巡っています。その中には、毛越寺の南にあったとされる坂芝山(さかしばやま)を、西行法師作とされる「撰集抄(せんじゅうしょう)」に出て来る慈恵(じえ)大師の髑髏の話と結び付けた記述があります。
*慈恵大師は天台宗座主(ざす)の元三(がんざん)大師(912~985)。その髑髏の話は、現在は一関市本寺の骨寺村(ほねでらむら)荘園遺跡関連とされていますが、こちらが本来の話でしょうか。
▶天明六年四月九~十日(『配志和乃若葉(はしわのわかば)』)九日は前沢を発ち、衣川経由で平泉入る。初午(はつうま)ノ祭を見ようと中尊寺へ上がり、田楽(でんがく)開口祝詞(かいこう・のっと)、若女(じゃくじょ)ノ舞、老女(ろうじょ)ノ舞などを見る。
その後、高館の義経堂などに詣り、十日は達谷窟や厳美渓などを廻っています。
◆秀衡公六百年忌
▶天明六年十月廿八日(『雪の胆沢辺(ゆきのいさわべ)』)
「廿八日十二月、秀衡のあそ(朝臣)六百年のいみ(忌)にあたり給ふを此日ものし給ふとて、人々中尊寺へまう(詣)でければ、朝とく山の目を出て此御寺に入ぬ。(中略)
あまたのまう(詣)づる男女、こ(此)はいにしへ、いでは(出羽)、みちのく(陸奥)の国をまつこ(政)ちて、しら河のせきより、そとがはま(津軽)に行べきみち〱(道々)に、そとば(卒塔婆)をさして、此みてらはなかば(半ば)にあたれるとて、いたくあが(崇)め給しなど、此のきみの、あはれいにし(古)也けるよとてなみだ(涙)ながしぬ。
やがて笛ふきつゞみ(皷)ならして、さるがう(猿楽)三たびかな(奏)でては(果)てぬれば、日く(暮)れぬとていそぎいでぬ・・・」
*秀衡は文治三年(1187)十月廿九日没とされていますので、この日記が書かれた天明六年(1786)は、確かに六百年忌の年に当っています。
*「秀衡の年忌にひとびとまうで」とありますので、寺院だけでなく一般の人々もその死を偲んでいたことがわかります。
*「詣でた多くの男女」が言ったという話は、通常は清衡の事績とされています。「卒塔婆云云」の話が、もしも秀衡の事績として語られたのであるならば、それは人々の思い違いになります。
◆真澄の「民俗学的な記述」
平泉を4回も訪れた真澄には、源頼朝によって滅ぼされた奥州平泉と源義経の悲劇への悼みがあったことは確実でしょう。
しかし、その記述ぶりは芭蕉の「泪を落しぬ」と比較すると、かなり冷静・客観的です。
その典型が一月廿日に目撃した毛越寺常行堂の摩多羅神の祭礼の記述です。真澄は、その最初から終わりまでを、十数ページにもわたり詳しく記述しています。
しかも、「小声で唱えるのでよく聞こえない」と記した経文も、きちんと記述していますので、聞いた後に、演じていた毛越寺の僧侶に確認したこととも思われます。
真澄には「見聞した事柄を正確に記録したい」という思いがあったのではないかと思われます。
このような真澄の、個人的感想を加えないで「事実」を正確に記述するという態度は、現在の民俗学に通じるものです。柳田国男(やなぎた・くにお)が真澄を「日本民俗学の先駆者」と紹介したのは、実に的を射ています。
芭蕉や真澄のこのような日記類を含めて、さまざまな記録、角度から奥州藤原氏の研究が進められますと、さらに大きな実りがあると思われます。今後に期待します。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任