#48 弥生 考古学から平泉文化を考える㊴ 日本考古学への貢献-呪いの考古学②-
2018年3月12日
◆形代
様々な形に成形された木片で、それに願いを込めて一心に祈ったり、それに穢れや病を付けて川に流したりする(流し雛的)ことに用いられた。
柳之御所遺跡から、正面や横顔を表現した人形・鳥形・刀形・鏃形・笄形・男根形(陽物)などが出土し、京都と同じ呪いが存在した。
平泉の人形には、いわゆる子の刻参りのような呪いに使用されたものは見当たらないが(平城京跡の井戸からは出土している)、横顔の人形は日本最古の例である。
男根形(陽物)は全国の古代遺跡から出土する、そのものズバリ男性器を象ったもので、とくに井戸跡から出ることが多い。これは陰陽二分の考え方で、陰である井戸の水が涸れそうになったり、水が濁ったりした場合に、陽である陽物を井戸に入れて、井戸の再生・活性化を図ったものである。また、陽物を水田の隅に立てる例もあり、害虫・災難除けの効能もあったらしい。
ちなみに、地中深く掘り下げた井戸は異界・冥界への通路であり、そこには井神が居る。井戸に不都合が生じた時は井神に捧げものをしてお祭りした。また、井戸を埋める際には竹竿を通して井神を外部へお連れした。平泉の井戸からはその捧げ物の白磁水注や節を抜いた竹竿が出土している。
◆地鎮祭の跡
高度情報化社会に突入した21世紀の今日でも、何らかの構造物の建設に際して地鎮祭が行われるのが普通である。12世紀の奥州藤原氏時代では、それはより熱心に行われていたらしい。柳之御所遺跡から地鎮祭の跡が数か所見つかっている。
*堀外部地区―2個の「かわらけ」の口を併せて算盤玉的な容器とし、その中に鉛ガラス製の珠を入れて、「かわらけ」よりやや大きめの土坑(地面を掘った穴)に埋置したもの。堀外部地区には藤原一族の屋敷地、または信仰関連の施設が存在した可能性があるが、その施設の地鎮をしたものであろう。
*堀内部地区―池の北側の大型建物が集中する最重要地区の北側に隣接して、1.2×2.0㍍前後の長方形の土坑があり、その底点に銅製の輪宝とその中心に鉄製の橛が突き刺され、輪宝の上とその周囲に小型の「かわらけ」8枚が置かれていた。
輪宝は密教法具の一つで車輪の形に似ている。古代インドの武器に由来するとされる。橛も同様の法具で杭の意味がある。
1998年(平成10)3月14日、故千田孝信前貫主によって執り行われた中尊寺新讃衡蔵建設の地鎮祭は天台宗の方式に則っていた。その写真を見ると、輪宝・橛・「かわらけ」に加えて、五宝(金・銀・真珠・珊瑚・琥珀)・五穀(大麦・小麦・則豆・白芥子、或は大麦・小麦・稻穀・小豆・胡麻)・五薬(草・木・虫・石・穀)などが用いられていた。
恐らく800年前にも、ほぼ同様の儀式が執り行われていたのであろう。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任