#7 神無月 東北地方の弥生文化(文化の「受容」と「変容」2)
2014年10月5日
私の考古学研究と埋蔵文化財保護における恩師は伊東信雄(いとうのぶお)先生である。伊東先生の研究によって、東北地方の古代研究は急速に深化した。発掘調査に当たっては、関連する諸分野の研究者との「協同調査・研究」を常態化させるなど、考古学を総合科学におしあげたのであった。
また、宮城県雷神山古墳(らいじんやまこふん)から多賀城跡(たがじょうあと)・陸奥国分寺跡(むつこくぶんじあと)に到る東北地方各地の史跡の保存整備を実現していった。さらに、それらのための多くの人材を養成してもいったのであった。
とりわけ、考古学研究の面では、東北地方における弥生文化の様相を明らかにし、東北地方には弥生文化を存在しないとした関西地方研究者の「偏見」を打破した。
1925年の山内清男(やまのうちすがお)氏の『石器時代にも稲あり』(宮城県枡形囲貝塚他において、縄文を施文した土器に籾の圧痕が見られる事実を集積し、東北地方における弥生文化の存在を指摘)をうけ、伊東先生はその類例をさらに追跡し、東北地方にも弥生文化が存在したこと、しかもそれは西日本におけるものとは大きく異なることを次々と明らかにしていった。
伊東先生の回顧談によると、それらの発見に対する西日本の研究者の反応は冷ややかであった。「籾の圧痕では不十分、稲作存在の証拠としては籾の実物が必要」というので、炭化した米・籾を発見すると、今度は「米・籾は運搬・移動可能であるから、稲作が現地で行われた証拠にはならない」という。
そこで、稲作が行われていた絶対的な証拠としては当時の水田を発見するしかないと判断し、その発見に努力し、遂に仙台平野のみならず青森県田舎館(いなかだて)(垂柳)遺跡など東北地方北部にまで水田を確認していった由である。
その過程で、水沢区の常盤広町(ときわひろまち)遺跡に甕棺墓を発見するなど、岩手県の弥生文化研究にも大きく貢献されたのであった。
今や、東北地方にも弥生文化が存在したことは考古学の常識となり、しかもその文化は、例えば、土器に縄文や各種文様を付けること、土偶が制作・使用され続けていること、石器の基本的な組成は縄文時代のそれと変化が見られず(制作技術はむしろ低下している)、縄文的な石器群の中に、太型棒状蛤刃石斧(ふとがたぼうじょうはまぐりばせきふ)や扁平片刃石斧(へんぺいかたばせきふ)などの弥生的な石器が例外的・客観的に存在する等々、縄文文化の伝統を色濃く残したものであることも、受け入れられている。
東北地方の縄文時代人は、恐らく日本海経由で伝えられた新しい弥生文化に飛びついたのではなく、「おずおずと、必要なものから少しづつ」受け入れていったに違いない。
相原康二(あいはらこうじ)
1943年旧満州国新京市生まれ、江刺郡(現奥州市江刺)で育つ。
1966年東北大学文学部国史学科(考古学専攻)卒業後、7年間高校教諭(岩手県立高田高校・盛岡一高) を務める。1973年から岩手県教育委員会事務局文化課で埋蔵文化財発掘調査・保護行政を担当。その後は岩手県立図書館奉仕課長、文化課文化財担当課長補佐、岩手県立博物館学芸部長を歴任し、この間に平泉町柳之御所遺跡の保存問題等を担当。2004年岩手県立図書館長で定年退職後、(財)岩手県文化振興事業団埋蔵文化財センター所長を経て、2009年えさし郷土文化館館長に就任。
岩手県立大学総合政策学部非常勤講師(2009年〜)
岩手大学平泉文化研究センター客員教授(2012年〜)
2024年えさし郷土文化館館長退任