#3 文月 大文字遺跡について(1)
2024年7月1日
今年は雨が少なく農作物の生育が少し心配されます。7月に入り山開きや鮎釣りの解禁など、本格的な夏の到来を感じさせますが、引き続き暑い日が続くと思われますので皆様体調管理には十分ご留意願います。
前回紹介した縄文中期の五十瀬神社前(いそせじんじゃまえ)遺跡とともに、当館の縄文コーナーには縄文後期の大文字(だいもんじ)遺跡(稲瀬地区)の遺物が展示されています。大文字遺跡では、平成14から15年にかけて、県道の整備事業に伴い新設される歩道部分を対象としA区~H区の調査区を設定し発掘調査が行われました。
発掘調査の結果、縄文時代後期前葉から中葉に伴う竪穴住居跡16棟のほかに、配石遺構・掘立柱跡・焼土遺構・土坑跡など多くの遺構が検出されました。このほかに、特に多量の遺物が廃棄された地点(遺物集中区)が3か所ほど確認されています。写真2はF地区調査状況で、奥の方に遺物集中区が見えます。
この時の発掘調査は面積も小さく部分的なものなので、遺跡の全体像を語るには情報量が少なすぎるのですが、少なくとも竪穴住居跡群に隣接して、祭祀に関係すると思われる遺構(配石遺構・掘立柱跡・焼土遺構・遺物集中区)などで形成されるブロックが何か所か存在していることは指摘できそうです。これらの祭祀にまつわる遺構等のまわりからは、土器・土偶・土製品・石器などの遺物が多く出土する傾向がみられます。
配石遺構(写真3)については、ここで何らかの宗教儀礼が行われていた可能性が考えられます。ただし、大文字遺跡では配石遺構周辺を含め遺跡内からお墓の跡は確認されていないので、この儀礼は葬送に関するものではなかったのかもしれません。
また、屋外で火を燃やしたことにより生成された焼土(焼土遺構)の存在と、遺跡内から焼けた動物の骨が比較的多く出土していることから、食料となった動物への供養のために骨を焼き、モノ送りの儀礼が執り行われていた可能性が考えられます。
このような焼けた骨を含む遺物の出土状況は、一戸町御所野遺跡などに見られる盛土遺構に共通する特徴です。
大文字遺跡では盛土遺構に相当すると考えられる遺物集中区周辺において、道具類の廃棄に伴う儀礼や、モノ送りの儀礼が執り行われていたことが考えられます。
調査状況
配石遺構
土器1(後期前葉)
土器2(後期中葉)
髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)
1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。
2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。
2024年、えさし郷土文化館長就任。