館長室から

#4 葉月 大文字遺跡について(2)

2024年8月1日

前回に引き続き稲瀬地区の大文字(だいもんじ)遺跡(縄文後期)の紹介をします。今回取り上げるのは配石遺構や遺物集中区などの周辺から出土した動物や魚の骨です。大文字遺跡では食料となった動物への供養のために骨を焼き、モノ送りの儀礼が執り行われていた可能性が想定されています。
出土した動物の骨はいくつかの種類が同定されていますので、どんな動物が食料となっていたか調べてみましょう。大文字遺跡から出土した骨で先ず目につくのは哺乳類の二ホンジカとイノシシで、様々な部位が見られ出土点数も多いことから、当時は主要な狩猟対象獣となっていたことがうかがえます。つまり、シカとイノシシは縄文時代のメジャーフードだったと言えます。肉は焼いたり煮たりして食べますが、貝塚の出土資料を見ると骨を打ち割ってスープをとることも行っていたようです。また、皮はなめして加工し、衣類や敷物などとして使っていたと考えられます。縄文時代には動物の角・骨・歯牙を加工して装身具や道具を作ることも盛んに行われていました。大文字遺跡からは1点だけですが鹿角製の骨角器が出土していますが、実際はもっと多くの骨角器が使われていたことでしょう。
次に哺乳類以外では写真のように魚類等の骨が出土しています。コイ科やカエル類は北上川水系において釣漁や網漁あるいは手づかみなどで捕獲されたものでしょう。しかし、問題となるのはブリ属・ニシン科・スズキ・ホホジロザメ・アカイカ科などです。ブリ属はブリのほかにカンパチなどを含む可能性があり、ニシン科は小型なのでマイワシなどの可能性があります。アカイカ科はスルメイカなどが想定されます。
これらの海産魚類等はやはり沿岸地方から供給された可能性が高く、沿岸の貝塚周辺で捕獲された魚類等を干物や燻製などとして加工して江刺地区まで供給されたと考えられます。もしこの想定が正しいとすれば、縄文時代の加工魚類等は江刺地区を超えて、もっと広域に流通していたことも考える必要があります。また、これらの魚介類は一網打尽にできるものではなく、季節ごとに来遊する対象魚類等を釣漁や網漁などで捕獲し、その都度加工していると思われるので、その供給は定期的にしかも長期間にわたっていたことも想定する必要があります。更に、大文字遺跡からは出土していませんが、沿岸の貝塚から出土する動物遺存体で最も多いのは貝類なので、二枚貝や巻貝をむき身にした加工品も前述した魚類等とともに供給されていた可能性を考えるべきだと思います。
私も長い間貝塚調査に携わってきましたが、貝塚から出土する動物遺存体の多くは自家消費かと考えていましたが、今回大文字遺跡の出土資料を見て、沿岸部の貝塚と内陸部の遺跡は意外と太い交易のパイプで繋がっていたのかもしれないなと感じました。

大文字遺跡について大文字遺跡出土動物遺存体
髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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