館長室から

#6 神無月 弥生時代について

2024年10月1日

昭和28(1953)年に伊東信雄(当時東北大学教授)先生によって、奥州市水沢佐倉河地区に所在する常盤広町遺跡にて発掘調査が実施されました。この場所は当時水沢農業高校の実習田となっており、前年に行われた耕地整理の際に1個の土器が発見されたことが翌年の発掘調査の契機となりました。
発掘調査の結果、竪穴住居跡か墓跡と思われる堀込の中から大型甕(かめ)と小型甕が口を合わせた状態(合口甕棺)で発見され、大型甕の内部からは弥生時代に特有のアメリカ式石鏃が5点出土したほか、周辺から管玉(くだたま)やガラス玉などが出土しました。さらに、稲の籾痕を持つ土器が発見されたこともあり、常盤広町遺跡は稲作を伴った弥生時代の遺跡であることが判明しました。当時、弥生時代の遺跡は福島県・宮城県までしか確認出来ていなかったのですが、常盤広町の発掘調査によって岩手県にも弥生時代の遺跡が存在することが初めて確認されました。この時に出土した土器は東北地方における弥生時代後期の標識資料とされ、「常盤式」と命名されました。
その後、昭和63(1988)年から平成元(1989)年にかけて周辺で発掘調査が行われ、弥生時代と想定される小規模な水田の存在が発表されています。
当館においても農業の始まりを告げる弥生時代の資料が2件展示されています。
ひとつは、市内胆沢地区の清水下遺跡から出土した石庖丁で、もうひとつは江刺地区の沼ノ上遺跡から出土した弥生土器です。
清水下遺跡の石庖丁は、阿武隈山地産の硬質粘板岩製で弥生時代中期のものと考えられています。この石庖丁は稲穂を刈り取る道具で、日本列島で最初に水田稲作が始まった北九州のものに形や構造が類似しています。このことから、奥州市周辺まで北九州に共通した水田稲作の技術が到達したと言えそうです。それでは、その技術は日本全国普遍的なものであったのかというと、どうもそうではないようです。例えば関東地方などでは石庖丁ではなく貝殻製の穂積具を使用していますし、関西地方では木製の穂積具を使用している所もあります。このように、地域ごとの工夫に基づき水田稲作の技術が普及していったのかもしれません。尚、本館の展示資料はレプリカで、実物は「胆沢郷土資料館」に展示中です。
また、沼ノ上遺跡は江刺愛宕地区に所在し、昭和45(1970)年に江刺教育委員会(当時)によって発掘調査が実施されました。この時に遺構は発見されませんでしたが、弥生前期の土器がまとまって出土しました。このうち3点を展示しています。1は高坏(たかつき)で脚部は失われています。沈線と縄文によって施文され、一部で縄文を磨り消しています。2は小型の浅鉢(あさばち)で全体に縄文を施し、口縁部に3条の沈線を巡らせます。表面には部分的に稲ワラの可能性がある植物圧痕が認められます。3は縄文のみを施すやや粗いつくりの土器で、口の付近にススが付着しており、火にかけて使う用途が想定されます。恐らく、甕で米などを炊く際に蓋(ふた)として使用された土器だと思われます。従って、実測図は上下が逆です。縄文時代にも蓋は少数伴っていますが、調理用具として蓋を使用するのは弥生時代になってからです。この土器のツマミ部分と蓋部分の境界に列点文が見られることから、北九州で作られた遠賀川式土器の影響を受けていると考えられます。

弥生時代について展示風景

弥生時代について石庖丁

弥生時代について土器1

弥生時代について土器2

弥生時代について土器3

髙橋憲太郎

髙橋憲太郎(たかはしけんたろう)

1958年、水沢市(現奥州市)に生まれる。
1977年、岩手大学教育学部に入学し、岩手大学考古学研究会に入会後、岩手県教育委員会の西田遺跡資料整理作業や盛岡市教育委員会の志波城跡(太田方八丁遺跡)・大館町遺跡・柿ノ木平遺跡等の発掘調査や整理作業に参加する。
1981年、大学卒業後、盛岡市教育委員会(非常勤職員)・宮古市教育委員会(1984年正職員)に勤務。特に宮古市では崎山貝塚の確認調査や国史跡指定業務等に従事した。この間文化課長・崎山貝塚縄文の森ミュージアム館長・北上山地民俗資料館長等を歴任。
退職後の2020年、奥州市に帰り教育委員会にて文化財専門員(会計年度任用職員)として埋蔵文化財業務等に対応。

2021年、岩手県立大学総合政策学部非常勤講師。

2024年、えさし郷土文化館長就任。

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